日本の工芸技術をさりげなく

3月に見せていただいた京都の旅館。設計した道田淳さんから許可をいただいたのでご紹介。画像は軽くはしてありますが枚数が多いので、表示に時間がかかるかもしれませんし、かからないかもしれません。画像よりも実際はもっとすてきです。


まず私は、広間に案内されました。この広間は、畳を敷いているスペースが36畳あり、さらに画像右のような拭漆で仕上げられたくつろぐスペース、画像の左には舞台などがあり、とても広々とした空間です。広々とした印象を持つ理由は、広間の三方すべてがガラス張りになっているからです。しかも、角に柱がありません。天井は一方からしか壁と接しておらず、水泳の高飛び込みの踏み台のような感じです。さらに、画像右の面は、すべてガラスを取り外すことができ、くつろぐスペースが庭の池のようになります。部屋を見ていって感じたのですが、この宿は、かなり緻密に「中と外の一体感」を生み出しています。単に開口部を大きくとったり中庭をつくるといったものとは次元が異なります。さて、なぜそのような構造で、ここまで広い空間を確保できるのか。画像に理由が写っています。一面だけは襖の続いていて、その襖は、桟のない柔らかなものです。

3階に移動してみましょう。




階段の手すりに、点字で階数が表示されています。道田さんの事務所で長年一緒にこの旅館を手がけた、田邊さんがご自身で鋲のようなものを打ちました。ちなみに、もちろんエレベータもあります。




敷地の境界に、とても高い壁があります。3階部分も完全に、外からの視線を遮断します。その壁というか塀から、何か出ています。この柱で、あの大広間を支えているのです。大広間の上にも客室があります。太い柱で2階を、細い柱で1階を支えているとのことです。この構造は、大広間の三方を柱なしでガラス張りにするためのものです。そして、これだけ高い塀があっても、1階の広間にあれだけの光が届くのです。前の画像に理由が写り込んでいると書いたのは、この大広間を吊っている柱の影というわけです。


あとは、あまり全体像が分からないように、凝りに凝った意匠のほんの一部をご紹介します。全体像をご紹介すると「見た気になる」ことが多いです。訪れた人だけしか観ることはできません。

客室のすべてがふたつとして同じものがありません。和紙をふんだんに使った部屋、曲線を多用した柔らかくも色気のある部屋、品位と重厚感を兼ね備えたどっしりとした部屋、私の語彙ではそれくらいしか言えませんが、多彩です。そして、多彩でありながらも、すべてが統制されたトーンのもと、堅苦しくない品格と心地よい上質さを生み出しています。それらを醸しているのが、細部までこだわった造りと、それらがちぐはぐにならず、しかも主張せずに佇む全体の調和だと思います。




浴室の手前、洗面スペース。拭漆です。浴室の壁と床も拭漆。浴槽には木曽五木の中でも最高と呼ばれている高野槙(こうやまき)が使われています。床は(名前を忘れてしまった)石と木を組んだ、これもあまりお目にかかることのできないすてきなものでした。こうしたスペースは、どの客室も同じであることが多いのですが、やはり少しずつ趣向を凝らしています。脱衣スペースに木を組んだベンチを置き、その背面も細い木の柱を縦に並べ、湯上がりの体のほてりを冷ますスペースのある客室もあります。脱衣スペースから外に出ることができ、寺院の回廊のように外側に配されたベランダのようなところからも部屋に行くことができる客室もあります。半露天風呂になっているところもありました。桶も、とても薄くて軽く、指に引っかかるような鋭角の部分がなく、とても洗練されたものでした。脱衣籠も、道田淳さんが竹細工職人に依頼したものが置かれている部屋もあります。




この洗面台は、木をくり抜いて、拭漆で仕上げています。かつてはホーローやプラスチックが多かった洗面ボウルも、最近ではアクリルやガラス、陶器を目にすることが多くなりました。その流れに逆行するかのような、厚みのある一枚板です。漆には抗菌効果もあるので、水まわりに用いるのはとても意味があると感じました。醸し出す品格が、まさに別格でもあります。使っていくうちにうすぎたなくなっていく他の素材とは異なり、年を経れば経るほど味わいが出てくると思います。ほとんどの浴室には窓がついていて庭を眺めることができ、浴槽につかったときにベストヴューとなるように、窓と庭木や庭石が設計されています。1本の木を別々の部屋から眺めることができ、しかもお互いの視線は遮断されているという離れ業もあります。




浴室の天井です。シャワーとは別に、打たせ湯のようにお湯を浴びることもできます。拭漆の天井に、柊をかたどった銅。




トイレットペーパーのホルダーです。銅を、わざと古びた感じにしてあります。浴室の蛇口なども同じように表面に手を加えてあり、とても落ち着いた雰囲気になっています。安っぽくぴかぴか光るものは、ひとつもありません。お手洗いは、床と壁の腰までが拭漆、腰から上は土です。




ある客室から坪庭を眺めてみました。窓や庭への出入口は、ほとんどがこのような感じになっています。床の高さから天井まで、ずっとガラス。サッシによる見た目の段差がないのです。一目見ただけでは、出入りできるとは思えません。でも、濡縁があるので出られるはずだと気づきます。また、鍵や錠が目立たないような工夫もされています。見えたくないものは見えないようにする、またはなくしてしまう、という工夫が、宿のいろんなところに施されています。




和紙を全面に貼った床の間の壁に、柊をかたどった穴が空けられ、そこから光がもれてきます。葉々は、流れるように、風で舞い降りるように配されています。夕方、部屋の灯りをつけずに過ごしてみたいものです。




欄間がわりの竹の断面に合わせて、天井の梁に穴を空けています。奥の網代の部分は、文机のあるスペースだったような気がします。天井の仕上げの違いで、空間を仕切っているわけです。違う意図かもしれませんが、私はそう感じました。




立派な柱ですが、ピンが合った画像を1枚も撮ることができませんでした。縦長のスリット窓は珍しくないかもしれません。でもこれは、珍しいところに配され、すばらしい効果を生み出しています。方角も計算されているので、この部屋でなければならなかったのでしょう。ここは、現在も蒔絵職人が、ここに設置する予定のものを作っています。貝を蒔いたもの(だったと記憶しています)で、スリットからの光によって、ある季節のある時刻になると、上座から眺めると、何かすばらしい眺めになるそうです。




こういう灯りの部屋もありました。全面和紙貼りの天井です。直線と直角だけで構成された部屋、壁や天井にまで曲線を多用した部屋、手すりまでに緻密な細工が凝らされた部屋、といったふうに部屋の雰囲気はさまざまです。そして、その雰囲気をさらに追求し、素材を組み合わせています。適材適所、しかも古くからある日本の素材や工芸だけで成り立たせているのです。ところが、このような素材でつくられた空間にありがちな「ひなびた」「まったり」という方向の印象は薄く、京都らしい「控えめなラグジュアリー」が洗練されて息づいています。宿の本館も、日本の意匠の宝庫です。




「ふくろ貼り」されている和紙。ふくろ貼りとは、和紙の四辺にだけ糊をつけて貼る技法。壁と和紙の間に空気が入るので、袋のように少しふくらんだ感じになります。この部屋の壁はすべてふくろ貼りされた和紙が貼られ、とても柔らかな雰囲気です。ふくろ貼りに耐えることのできる丈夫な和紙を、道田さんはわざわざ作りました。丈夫な和紙はもう、日本のどこにもなかったようです。




書きもの机が設けられたスペースの窓。東南の角がガラスです。東に向いた面のガラスの中に、風を入れるための窓があります。書いている便箋や読んでいる書籍のページが飛ばない、目線の少し上の高さにあります。窓の外は、この部屋だけの坪庭です。プラスチックのように見えるのは私の撮影技術のなさで、木です。ここも、柊をかたどっています。




ピンがどこにも合っていないですが、お見せしたいのは手前の床柱です。床柱といっても、高さ40センチほどの、正方形を雁行に組み合わせた形の板です。床の間全体が溜塗りで、床柱にあたる部分の天面にだけ、金を蒔いてあります。そこに真上から光が当るようになっていて、光で柱ができあがるというわけです。床の間の壁は曲線でできていて、それにも理由があり、部屋に入ったときの印象がすばらしいです。他にも、ガラス張りの背面からせせらぎが流れてくるようなイメージの、細かな階段状の溜塗の床の間(的なもの)もありました。床の間は、かなり凝っている部屋がいくつかあります。花生けや軸などの室礼も、あれこれ考えるのが楽しそうです。




私がいちばん見たかった、玉虫の床板。一間の幅がある、艶のある黒塗りです。そこに、画像のような感じで見事に玉虫が埋められています。玉虫の羽は平らでなく、かといって構造色なので研ぐこともできず、金箔(どんな曲面にも貼ることができる)や貝殻・卵殻(貼った後に表面を研いで仕上げる)とは異なり、貼ることがとても難しい素材です。滝をイメージした床の間なので、曲線です。部屋をはさんだ反対側には、黒御影石に水を2センチほど張った、12畳ほどの池を模したものがあります。そんな感じで、ひとつひとつの意匠が連続して組み合わされており、客室ごとの雰囲気の違いを生み出しているのです。さらにこの部屋は、上座に座ったときの灯りの角度も計算されていたような記憶があります。


以前とりあげた、この高盃は、この宿の床柱の端材から作りました。本来の床柱を観ることができ、何も手がけていない私もうれしくなりました。


基本中の基本ですが、艶のある黒塗りの板には、まったく埃がありません。ここまできれいにしているのはたいへんだと思います。このアングルで黒い漆を撮影すると、たったひとつの埃も目立ちます。私は、お盆ひとつ撮影するためにエアダスターと手袋と眼鏡拭きを用意しています。また、漆で仕上げた浴室は、毎日手で水気を拭き取らないと維持できません。ふつうは、手間を増やすことをわざわざしないことが多いです。化学洗剤を吹きかけてダスターで拭いておしまい、ということがほとんどだと思います。スタッフの都合なわけです。ところがこの宿は、直接的なお客へのサービス/ホスピタリティだけではなく、掃除や建物の手入れ、さらに漆の手入れにまで日々心くばりしているのです。そして、漆や竹、和紙など、毎日手入れする価値のある材料ばかりです。プラスチックや金属は、ほとんど使われていません(外から観ると、ダイナミックに使われているところがあります)。竹・漆・和紙といった素材は「くたびれる」という概念とは無縁です。使い込んでいけばいくほど、より一層美しくなっていくのです。真っ白でときどき白木を使った、できあがったばかりのころだけ「かっこいい」デザイナーズホテルとは対極です。この新館は、3階建てで、客室は7室。秋から年末にかけて、ビークルを吟味してメディアに登場するそうです。そのときは、これら私の画像よりも、もっとまともな写真で紹介されると思います。


私の地元に、山中漆器の職人たちがたくさん携わり、あらゆるところに漆を使った建物があります。こういうことを言うのはまずいとは承知の上ですが、誰かが言わないと、どんどん勘違いした方向にエスカレートしていくので書きます。私は、ひとりの地元の人間として、あの建物を恥ずかしく感じています。漆を塗ることができるところにとにかく塗ったという感じです。おまけに、あらゆる塗りや蒔絵の技法を詰め込んで、バランスを著しく欠いています。ところが、お手洗いなどはいかにも公共施設という感じです。「自分の家も、こんなふうにしたいなあ」と思う観光客がいるでしょうか。いないと思います。むしろ逆効果です。わざわざ建物を建てること自体、漆は「自慢」するものであって、生活と乖離したものというイメージを与えてしまいます。あの美意識のなさと狭窄した視点は「伝統工芸」の世界が、機能や使う人のことを考えず、技術自慢/素材自慢、そして自己満足に陥っているのと、何か関係があるのかもしれません。

たとえば、山中には山中温泉があるのですから、共同浴場の大きな浴槽を漆塗りにするくらいの気概がほしいものです。漆には抗菌効果があるので、脱衣籠や床に漆を塗ればいいのです。そうして、日常行う動作の中で漆を塗ったものを使っていただき、漆の良さを知ってもらうほうが、彼らの狙っている効果が出ると思います。そして、温泉と漆器という資源があるのですから、多くの漆器産地よりも、それをできる土壌と機会はあるはずなのです。

京都と山中、老舗旅館と公共事業、道田淳とゼネコン。比較することが間違いなのですが、月とスッポンなので書きました。私の頭の中では「漆を使っている」という共通項があるだけで、まったく別物です。
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