「本に登場する魅惑の人々」

本のTB企画に参加します。今回の主催はワルツさん。テーマはタイトルの通り。

ごく一部そうではないが、ほとんどの小説には人間が登場する。正直言うと、登場人物よりも、著者に惹かれてしまうことが多い。「よくもまあこんなに(人物を)うまく/ひどく書けるなあ」と、一旦小説の外に出てしまうと興味が著者に向いてしまうのだ。あと、小説の登場人物より、実際の人物のほうがおかしいというのもある。海老に紐をつけて散歩させる小説家なんて、小説内に出てこない。
挙げた本たちを見てみると、違った目線を持っている人に惹かれる傾向があるようです。『春琴抄』だと、春琴ではなく、自分で自分の眼を刺した男に惹かれます。『ロリータ』でも、ドロレスではなくハンバートに惹かれます。このふたつは、自分だったら絶対にそんなことはしないからこそ、読む価値があると思っています。というわけで、こんな人になりたいとか恋するとかではありません。困った人たちばかりです。



■レーモン・クノー『オディール』の“僕=トラヴィ”
シュルレアリスム運動から離れたクノーの実録的小説。主人公はクノーの投影。シュルレアリスム運動で起きた内紛が離れた側から語られているが、教養小説としても読むことができる。ふつう、世の中に伝えたいことや訴えたいことがあると声高になりがちで、そういう場合、言葉は時として強権的になってしまう。言っていることは間違っていないが、度を過ぎると立場が逆転してしまうし、賛同しない人が悪にされてしまう。これは、シュルレアリスムへの恨みつらみや批判がない。まったくとは言い切れないけれど、読み手が嫌悪感を抱いてしまうような書き方ではない。そこががすてきで、美しい。そして、哀しい。私は、そういう人に惹かれる。このような存在は、本の中でも世間でも騒がしくないので、大切にしたくなる。でも実際にそばにいたら、背中を押したり叩いたりしてたいへんだろうなと想像してしまう。

■イタロ・カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』の“子爵=メダルド”
タイトル通り、戦争で被弾して体がまっぷたつに分かれた子爵が登場。まっぷたつということは「右」と「左」のふたつ。作中では《善半》と《悪半》とも呼ばれている。それぞれがどのようなキャラクターなのかは読んでみてのお楽しみ。当時のイタリアのパルチザンに重ね合わせた論評が多いが、それを直接的に書かず、まっぷたつになった子爵というキャラクターを設定して寓話に仕立てた手腕がすばらしい。全編におかしみが漂う。日本では寓話は子ども向けなので、エーコ『薔薇の名前』の翻訳者で知られる河島英昭の訳だが、子ども向けの訳文。新しく翻訳し直してほしい。あと、カルヴィーノの小説では『冬の夜ひとりの旅人が』に、すてきな人物が登場します。

■スコット・フィツジェラルド『夜はやさし』の“ニコル”
ヘミングウェイが「キリマンジャロの雪」で扱っている通り、フィツジェラルドは富と名声こそが人のレベルを決定づけると思っていて、常に自分より「上」の存在を羨望した。若くして一躍米文壇の最前線に躍り出て、大金を手にする。享楽的な生活に溺れる。美しい女性、ゼルダと結婚。彼女はフィツジェラルドよりも浪費家だった。フィツジェラルドは支出が収入を上回っても、妻の家のお金には手を出さなかった。お金がなくても出版社が貸してくれた。しかしジャズエイジは終わり、大恐慌が訪れ、フィツジェラルドの生活も破綻した。妻のセルダは精神を病みはじめた。『夜はやさし』は、第一章を「診断資料」と題し、ゼルダの発狂を中心に据え、才能の枯れ果てたフィツジェラルドがなんとか再び執筆で生活を築こうとして書き上げた、というか後に原稿を整理して刊行された、何ら文学的価値のない、破綻した傑作。その破綻の度合いが、フィツジェラルドの暮らしを記し、ゼルダの「非常さ」を最も効果的に表現している。ゴダールの映画「気狂いピエロ」には「夜はやさし」「それは恋愛小説」というダイアローグがある。もちろんこの小説から。対岸の火事として読めばギリシア悲劇のようにおもしろいだけだが、自分がフィツジェラルドやゼルダに「ならない」という保証は、何もない。

■リルケ『マルテの日記』の“マルテ”
これはフィツジェラルドの『夜はやさし』よりもおそろしい。パリに移る主人公。何ら先の保証がない不安。何者にもなれない焦り。都市の冷たさ。たまらない孤独。そして、それらによる現実逃避(=楽しかった過去への退行)。現在の日本でも、たとえば東京にはこういう人がいるような気がするし、そういう闇を内包するのが都市だと思う。都市にエネルギーを吸い取られる(飲み込まれる)人と、都市のエネルギーを利用する人がいる。もちろん後者のほうが幸せだ。次に紹介する笠井潔は、ねたとして読むと非常におもしろいのだが、これはとてもねたとして読むことなどできない。主人公の視点から、目を背けたくなる。それは、ひとりパリに移ったリルケの視点そのものなのだけれど。

■笠井潔『バイバイ、エンジェル』の“矢吹駆”
ミステリの登場人物の常套手段といえば、まずワトソン君のように解決とは程遠い推理をして結果的に読者をけむに巻き、ページ数を稼ぐ人。そして、あまり足を使わず頭の中だけで解決する、ホームズのようなアームチェア・ディテクティブ。日本ではなぜかワトソン君が『すべてはFになる』に代表されるように若い女性であることが多く、そうでなければ小栗虫太郎の時代から島田荘司や京極夏彦の作品のようにかなりの間抜けとして描かれることが多い。キャラクターを極端にして登場人物が多彩であるかのように見せてキャラ萌えさせて登場人物は同じままでシリーズ化される。書くほうとしては楽だし読むほうも楽なので、こんなにたくさん出ているのだろう。さてこれは矢吹駆という「現象学」によって事件を解決する日本人が、パリを舞台に難事件を解決するシリーズの第一作。矢吹駆以外はすべてフランス人というスタイリッシュさ。ちなみに著者の笠井潔は高校を中退していろいろと闘い、敗れてひとり渡仏。フランス滞在中にこのミステリ『バイバイ、エンジェル』と、論考『テロルの現象学』を執筆した。ワトソン役にはブルジョア家庭の美少女、ナディア・モガール。しかも彼女の父親が警視。シリーズが進むに連れ、当然、ナディアは次第に矢吹駆に淡い恋心を抱きはじめる。矢吹駆がおもしろすぎる。住まいは、ぼろぼろのアパート。部屋にあるのは、ベッドと数冊の本だけ。食器も着替えも、テレビも電話も、電気すらない。冬に布団もかけずに(掛布団がないのだ)寝るのだが、凍死しない。いつも同じ服だし風呂に入っていないはずなのに、くさくない。口笛で吹くのはストーンズ“悪魔を憐れむ歌”。そしてナディアがあれこれと事件を解こうとするのだがカケルは否定。すねるナディア。ナディアが語り手なので、矢吹駆はいつまでもミステリアスな存在。全共闘世代の夢をすべて注ぎ込んだらこうなるという、ありえなさ最高度の傑作。にもかかわらず、ものすごく本気であるところもすばらしい。現象学探偵なだけあって現象学の手続きで事件を解決していく。となると哲学の素養がないと楽しめないと思われがちだが、哲学に詳しい人が読むと内容や解決方法に不満が出る(シリーズが進むごとに思想や観念が事件解決ではなく人物像の描写にシフトしている)ので、まっさらな状態で読むほうが楽しめるのではないかと最近思うようになった。とにかく、これはおもしろいです。

想像の5倍くらいの長さになってしまいました。


追記;
長くなったと言っておきながら何ですが、10タイトルまで挙げて良いそうなので、限度枠いっぱい使おうと思います。




■ボードレール「異邦人」(『パリの憂鬱』収録)の“異邦人”
『パリの憂鬱』の冒頭を飾る、対話形式の詩。質問されて答えていくほうが、異邦人。これをボードレールの宣誓ととらえる意見もあるが、私は質問するほうがボードレールだと確信している。これで一気に価値観や一般概念を転倒させられ、読者は『パリの憂鬱』の世界へいざなわれる。これに影響を受けた人は小説家や詩人にとどまらず、ミュージシャンにも援用する人がいる。かつて、みんなと同じでないことによって世界との違和感を持っていたとき、これを読んで救われた。それから私は「ふつう」とか「世間」とか「一般的に」とか、気にならない。

■マックス・エルンスト『百頭女』の“私のおじ”
コラージュ(コラージュを生み出したのは、このエルンスト)作品に、キャプションのような短文。「私のおじ」は、111ページに登場する。その絵につけられているキャプションを全文引用する。

それでは私のおじを紹介しよう。いつも日曜日の午後、
私たちはおじの髭をくすぐるのが好きだった。


これは「髭」ではなく「髯」と訳すべきだったのではないかと私は思っている。髭は口ひげで、髯は顎ひげだからだ。その理由は、絵を観てみれば判る。私も、こんなひげがあったら、毎日くすぐっていたい。

■矢作俊彦『リンゴォ・キッドの休日』の“二村永爾”
和製ハードボイルドの代表格というより、ハードボイルドの本質をそのまま書くことのできる唯一の日本人。屈託のかたまり。笑ってはいけないのだろうが笑ってしまう。二村永爾は神奈川県警の刑事なのだが、やっぱり非番の日に事件を解決しなければならなくなり、公安と対立したり、横浜と横須賀の米軍を相手にしている女性と何もなかったり、カリフラワーのグラタンを食べる前にビールとジンを飲んだり、ハードボイルドである。ふつう会話で「知らない」と言うところも、この小説の中の世界では誰もが「知っていない」と言う、ある意味ユートピア。

■松本大洋『ZERO』の“五島雅”
ボクシングの漫画。五島は強い。ものすごく強い。ふつうスポーツ漫画といえば、初心者同然の主人公がライバルに馬鹿にされたり女の子にもてたいからスポーツを始めて次第に強くなっていくというのがいちばん数字のとれる展開なのだが、五島は第一話で26回目の統一世界王者を防衛する。才能のあるスポーツマンやアスリートの孤独、というのはメディアに躍る常套句だが、これがいちばん描けている。だから「もっと丈夫なおもちゃがほしい」と言う五島に、心が揺さぶられる。

■ガブリエラ・ガルシア=マルケス『百年の孤独』の“小町娘=レメディオス”
著作の日本語訳タイトルをお酒の名前にするくらいならかわいいけれど、それはちょっとどうなんだろうと思ったブランドの名前といえば、ガルシアマルケスとセシルマクビー。『百年の孤独』は、ある家系について何代にも亘り書かれた小説。名作中の名作なので作品についてどうのこうの解説することは控えるが、緩い感じでするすると読み進めることができるので、世界の名作という枠に押し込んでおくのはもったいないと思う。昔借りて読んだだけだったけれど、新版が出て冒頭に家系図が載っているので購入した。登場人物が多く、同じ名前もあるのでそれだけが混乱する。そのたくさんの登場人物の中で、レメディオスに最も心奪われた。といっても小町娘のレメディオス。アウレリャノ大佐の妻のレメディオスではないです。ちなみにもうひとりレメディオスという名前の女性が登場します。おまけに表紙カバーの絵の作者もレメディオスだったりします。でも描き分けができているので、慣れると別にどうということはないし、それくらい何度も読み返す価値のある一冊。ねたばれになるので説明できないのが歯がゆいが、小町娘におけるラストは絶品。世界的な名作なので過去の人と思われがちだが『百年の孤独』は1972年発表。ガルシア=マルケスはまだ生きていて、新作を刊行し続けている。早く翻訳してほしい。
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コメント

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kotaさん、こんばんは。
今晩、結果発表してみました。
ご参加本当に有難うございました。(多謝)

not subject

LINさんへのコメントに追加です。

例えばロラン・バルトは母への思慕が常に頭にある、同性愛者でした。
ミシェル・フーコーは共産主義活動に参加していた、同性愛者でした。
ルイス・キャロルはナボーコフなど比較にならない幼児性愛者でした。

彼らの著作を読むとき、確かに同性愛者であることは、何ら必要ないことかもしれません。
でも、彼らの考えの根柢に「著者が同性愛者である」ことを踏まえておかないと、
より正確に読み解くことはできないとも思いますし、
著者を知らずに鵜呑みにすることは、危険だとも思います。

また、何かひとつ読んで、自分と合わなかったり、端的に言うと「良くなかった」とき、
その著者の次作を、まったくのニュートラルで読むことは不可能です。
作家論のみを振りかざす人もそうなんじゃないかなあと、ぼんやり思います。

コメントありがとうございます

>pico様

ZEROで来ました。かっこいいです。
現実にはありえないくらい強いヒーローが登場するのが漫画ですが、
五島はありがちなおかしな必殺技などは持っていません。
だからこそ、底知れぬ強さと、畏怖を感じます。
東洋を獲った弟分の表情が対照的で、より悲しくなります。

上下巻で、下巻がひとつの試合というボリュームバランスもすごいです。

松本大洋は、連載ものでも最初から全部できあがっているのではないかと勘ぐってしまうほど、
きっちりと決まっていますね。
連載しない描きおろしもありますし、とても才能がある人だと思います。

『夜はやさし』は、ちょうど世みたくなった時期と角川文庫の復刊が重なって、ラッキーでした。
でもこれは売れないなあと思います。
あれだけきらきらと煌めいていたフィツジェラルド絶頂期の作品とは全然違います。
でも、だからこそ心がかきむしられます。

コメントありがとうございます

>LIN様

作家論と作品論は分けるべき、という風潮がありますね。
私が通っていた大学でもそうでした。
でも日本の場合は私小説に代表されるように
「書く人」と「書くもの」は、切り離せないものであるとも思います。
それが作家の手を離れて「書かれたもの」となっても、
やはり作品の奥の書き手を意識してしまうし、
それを頭から排除することは不可能だと思います。
言語の魔術師ナボーコフを読むときも、驚嘆すればするほど、
そのような作品をものした著者に興味が湧いてしまいます。これは自然な興味です。
また、作品ではなく作家のキャラクターが先行している人については
「そういう人もいる」といった認識です。

カルヴィーノ全体でいうと『冬の夜ひとりの旅人が』がおすすめです。
本好きなら、ぜったい楽しむことのできるマタフィクションです。

『あ・じゃ・ぱ・ん』はおもしろいですよ。
長いですが、何も考えずに楽しめるので、あっという間です。

亀田の試合についてはいろいろな噂が流れていますね。
平日開催、紅白、原田会長の両隣に座っていた人、などなど。
以前の仕事仲間から情報ももらいました。
野球、角力、プロレス、拳闘。
日本でメディアに取り上げられるスポーツは「興行」なので、
いちいち腹を立ててもしょうがないという、つまんない立場です。
でもあまりにもあからさまでしたね。
本人のあずかり知らぬ力が働いているのでしょう。
判定結果を聞いたときに亀田が見せた「えっ!?」という表情が、忘れられません。
そのあとに父親が耳打ちしていました。そこに、興行のすべてが凝縮されています。
年齢も若いので、これからいろいろ知っていくのだと思うと、少し哀しくなります。

コメントありがとうございます

>四季様

やっぱり矢吹駆はご存知ですよね。
笠井潔ご本人の講演会に行かれたとは、うらやましい限りです。
難しそうな気がします。小むずかしいオーラが写真でも出ていますね。

間抜けなワトソン君、食傷気味ですか・・。
私は今ではほとんど読まないのですが、それは
謎解きに徹した、手応えのある本格が減ったというのが理由です。
シェイクスピア、よく解ります。プログラムピクチャーは観なくても分かるのと同じですね。

『木のぼり男爵』は白水uブックスから出ているので、ふつうの訳文ですよ。
どちらもおもしろいです。こっちは借りるだけでも良いような気もします。

映画「ピンポン」での台詞は、ほぼ漫画の吹き出しと同じで、
映画を観たときにはびっくりしました。
構図も、漫画のコマを反射的に思い出すほど同じシーンがいくつもありました。
これほど原作に忠実な映画も珍しいと思います。

コメントありがとうございます

>ワルツ様

格調低くないです。同じ行為でも、人によって格調は変わります。
私もミステリの常套手段にはまるのは好きなんです。
ミステリは謎解きが最も重要なので、本格と言われるものが好きです。
謎解き以外の要素は、できるだけ簡略化しておいてくれたほうが私としてはありがたいわけです。
「文学的」である要素も、まったく不要です。

年齢を重ねるにつれ、登場人物の嗜好が変わってきたような気もします。
純文学と大衆文学を分ける気も資格もないのですが、
登場人物の年齢が若いと読めないのは、大衆文学と言われるものに多いです。

not subject

kotaさん、おはようございます!
ZEROできましたか。
確かに、あれは、かっこいっ!
というか、松本大洋氏自身がかっこいいので、彼の描くキャラで嫌いな人っていないです。
みんな、愛すべき人々。

夜はやさし。
ケース入り、いいですね。うらやましい。。
ゼルダといい、智恵子といい、破綻してしまうほどの熱情や純粋さを持った人に憧れます。

そういえば、百年の孤独を途中でほうりだしてました。
読まなくっちゃ。


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>興味が著者に向いてしまう
先日、ちょうどウチのブログでそんな話になりまして、
私はどうしても作品の向こうに作家を見てしまうのですが
「作家なら作品だけで勝負しろ」とおっしゃる方もいて…
優れた読み手であるkotaさんが著者に惹かれると書いていらして
ちょっとほっといたしました。
カルヴィーノは『宿命の交わる城』と『見えない都市』を読んで
「もっとカルヴィーノを読みたい」という気持ちが起きるほどではなかったのですが
kotaさんの紹介文を拝見して、『まっぷたつの子爵』読みたくなりました。
矢作さんは、先日、『マイク・ハマーへ伝言』を読んだのですが
日本のハードボイルド作品にありがちな違和感もなく
骨太で文学的でもありいい作品だと思いました。
矢作さんは矢作さん本人もステキ♪
次に彼の作品を読むなら『あじゃぱん』にしようと思ってます。
>ボクシングの漫画。
といえば、昨日の亀田興毅の試合、ご覧になりました?
あれはどう見たって、亀田興毅の方が負けてたと思うんだけどなあ。
試合後も微妙な判定だったのだから、亀田もすっとひっこめばいいのに
派手なパフォーマンス。
TV側の仕掛けのわざとらしさを感じました。

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kotaさん、こんにちは。
わ、昨日ちらっと覗かせてもらった時に比べて、倍ほど長くなってる!(笑)
そして問題の京極・森が引き合いに出されてるのは、矢吹駆なんですねー。
実は、京極→森ときた私が、次に夢中になったのが笠井さんだったんです。
いいですよね、矢吹駆。というか、このシリーズ。
先日、京都で笠井さんの講演会(珍しい!)があったので行ってきたんですよ。
ちょっと難しめだったけど、なかなか面白かったです。
…ということで、今はどちらかというと、矢吹駆よりも笠井潔萌えな私…。
(新作もなかなか出そうにないですし・笑)

でも京極・森は好きだったし、ミステリも好きなんですが
間抜けなワトソンくんの構図は、元々あまり好きじゃないんですよね。
これはもう必要悪かなと割り切って読んでたんですが、やっぱり食傷気味…
ミステリそのものからも、気持ちが離れ気味です。
これって、シェイクスピアの喜劇に昔から感じてる苛々に
通じるものがあるような気がするんですが… 括りが乱暴すぎ?(笑)

上に挙げてらっしゃる中では、「まっぷたつの子爵」が前から読みたいと思ってた作品。
児童書でしか出てないけど実際はどうなんだろう、と思ってたんですが
やっぱり、元々は別に子供向けの作品ではないんですね。
カルヴィーノは、次はこれか「木のぼり男爵」か。と思ってたんですが、
これは面白そうですね~。やっぱりこちらにしてみようかな。

松本大洋さんは、漫画は読んだことがないのですが、ピンポンの映画が大好きです♪
あ、原作ファンには、映画がどんな風に映ってるのか分かりませんが…

こんばんは。

kotaさん、ご参加どうもありがとうございます。
私の格調低いミーハーなお題によくぞここまでと、感謝しています。
ゆっくり一つずつ読ませていただきました。
kotaさんが四季さんにおっしゃってらしたキャラ萌えのお話は、笠井潔『バイバイ、エンジェル』ですよね?
kotaさんの分析が流石で、面白かったです。小さい頃から私も推理小説大好きだったのですが、まんまと常套手段にのせられて反復し続けていたのですね~笑
解決とは程遠い推理をしてページ数を稼ぐ人ワトソン君。ここを乗り越えると、後に美味しいご馳走があるのですから。(笑) ご褒美に探偵さんの目覚しい活躍にうっとり~。
日本のワトソン君は、『すべてはFになる』に代表されるように若い女性。小栗虫太郎の時代から島田荘司や京極夏彦の作品のかなりの間抜けさん。
そういわれれば、そうですね。ワトソン君は間抜けじゃないから、日本の特長ですね。
関口君は憎めない人です。京極も奥様より、関口が一番好きなのではと思ったりしますよ。

松本大洋は漫画なのですね。picoさんが、花男をあげてらっしゃって分かりました。五島、かっこよさそうですね。
スコット・フィツジェラルドの『夜はやさし』も是非、読んでみたいです。この作品は、映画で観るのもいいでしょうね。
『まっぷたつの子爵』、ナンカ、すごい状態で、心惹かれました。面白そうですね。
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