ロラン・バルト『批評をめぐる試み』



著作集第5巻。かつては『エッセ・クリティック』として晶文社から出ていた邦訳は完訳ではなかった。2005年末に出たこれが完訳。

原題『Essais Critiques』はその名の通り『零度のエクリチュール』でデビューした1953年から約10年間に書かれた批評をまとめた、ロラン・バルト初の批評集。本国では1964年に刊行。前述の邦訳は1972年に篠田浩一郎の訳で出ている。私が初めて読んだバルトであり、思い出深い一冊。私が大学に入学したのは1989年で、その頃はジャック・デリダドゥルーズ=ガタリを代表とする脱構築主義またはポスト構造主義が跳梁跋扈していた。ちなみに1980年代半ばに大ブームとなった日本式ポストモダン(ネオアカデミズム)は、その大学では完璧に相手にされなくなっていた。勉強というか、好きな人は高校生のうちにデリダを原書で読んでいた。私は、思考や知識が偏ることは良くないと、浅田彰を信奉しているために論破される同級生と、デリダの語法と論法で論破する同級生を眺めながら感じた。これは完全に、芸術家の思考ではない。

私は、論破するための思考回路と内容を身につけることを放棄し、より客観的に世界を理解し読書に耽る方法を身につけるようになっていった。だから私は、方法論である記号学と構造主義と現象学が大好きなのだ。何種類かの方法論(器)を身につければ、あとはどれだけ知識と情報(中身)を入れるかである。これは考えようによっては「ずるい」やり方で、要するに他力本願である。世界・社会・現代を視る書籍において、何ら方法論を使わず、言いたいことを(言葉遣いではなく論理として)乱暴に言っているだけの著作は(だからこそ大衆に読まれるのだが)、たとえその主張に賛同したとしても、私は購入しても読了せずに捨てる。賛同しても「理論」がなければ私の頭の中の状態と同じだし、賛同できなくても「理論」がなければ単に「話が合わない」で終わってしまうからだ。

いちおう断っておくが、私の通っていた大学はアカデミズムとは対極だったし、むしろアナーキズムの最高学府だった。私が所属していた学部体育会の部室には、今でも学生運動の頃の痕が残っている。東大安田講堂が最も有名だが、あの学部も割と最初から最後までがんばっていたそうである。という過去はあまり関係ないし私はアナーキズムよりもさらに個人主義なのだがそれはともかく、スキンヘッドで全身を白く塗りたくって舞踏をしている人間(しかも在校生)がキャンパスにいるなんて、他には絶対ない。就職も、在京テレビ局や全国のNHKや電通や読売新聞社や講談社など、偏差値はびっくりするくらい低いのにマスコミには異様なほど強かった。在学中に名前が知られるようになって芸人や役者や写真家として活躍する人間もいた。でも、デビューも就職もできなければフリーターや学校の教師になるかしかなかった。勝ち組負け組を50年前から実践していた大学である。将来の心配のない子どもが余芸を嗜む感覚で入ってくるし、一方では「自分にはこれしかない」となぜか自分で切羽詰まらせて来る人もいた。そして、努力した人が報われるわけではないという、裏返しだけれど当然の平等さを体現している大学でもあった。本来は芸術家を輩出することが目的であるはずなのだが、かつて強かった演劇や梨園も今では弱く、目立った活躍をしているのはマスコミと映画とゲームと写真くらい、純粋芸術の分野は東京藝術大学のひとり勝ちという、ごくあたりまえの流れになっている。スキンヘッドで舞踏をしたところでチャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院から奨学金つきで留学の誘いなど来るわけがなく、裏びれた下北沢の劇場にお金を持参してお願いするくらいしかない。思いのほか大学の話が長くなった。

デリダに心を惹かれないのは、答えがないからである。デリダは、答えを出さずに皆をこわがらせているように感じた。では、バルトに答えはあるのかというと、ない。では、なぜ私が現代思想の誰もが同じように答えのない中でバルトを偏愛しているかというと、私はバルトから「どうせ何も言えないのだったら楽しんでしまえばいいじゃないか」というスタンスを感じたからである。バルトは、世界を好意的なまなざして観ること、読むことや聴くことに潜む真の快楽を教えてくれた。デリダがこわらがせるのが現代の現実であるかもしれないし、バルトの快さは現実離れしているのかもしれない。でも私は、バルトを読む。そもそも文芸や音楽などの芸術は現実の生活とは関わり合いを持っていないと、私は考えているからだ。

いつものように目次。

事物(オブジェ)としての世界
対物的(オブジェクティフ)文学
ボードレールの演劇
盲目の<肝っ玉おっ母>
ブレヒト的革命
舞台衣装の病
字義通りの文学
古代をどのように上演するか
いかなる演劇のアヴァンギャルドか?
ブレヒト的批判の責務
「<意欲>はわれわれを焼き尽くし……」
最後の幸福な作家
ロブ=グリエ派など存在しない
文学とメタ言語
タキトゥスと死に彩られたバロック
『魔女』
『地下鉄のザジ』と文学
労働者と牧師
カフカの返答
ブレヒトの『母』について
作家と著述家
今日の文学
両方の側から
文学と不連続
三面記事の構造
ロブ=グリエに関する現状分析
記号に関する想像力
構造主義的活動
ラ・ブリュイエール
目の隠喩
二つの批評
批評とは何か?
文学と意味作用
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