ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』



待望の、ほんとうに待望の新訳。

これまでの邦訳は、何度も投げ出した。
危ない人の思想をマンツーマンで聞かされているようだった。
でもこれは、あっけにとられるくらい読みやすくなっている。
単語はもちろんのこと、この著書の成立要因がよく解る文体。
座談会の書き起こし、または独り言。
ニューアカデミズム華やかなりしころに、この著書について問題となっていたこと。それら問題点そのものの意味を、ようやく咀嚼できた。という段階では、とても頭がすっきりした。スリリングさも、ちゃんとある。

内容については、やっぱり首肯し難い。そもそも、人間が「無意識」によって活動する「欲望機械」であることは、人間自身が認識/自覚できないことだから。つまり、何でもありの状態、主張の真偽を証明することは不可能。ということは、全く正反対のことも(証明なしに)主張することも可能。私がポストモダンを苦手とするのは、その「のらりくらりさ」による。「あー、そう」としか反応できない(ちなみにドイツ語でも「あー、そう」は「あー、そう」と発音します)。欲望機械の種類も、誰でも思いつきそうなところが何とも……村上龍ですら(失礼)以前、人間を「マシーン」と「アスリート」と何とかかんとかに分類していて読みながら大笑いしたことがある。

博覧強記の縦横無尽さを、自らが打ち出す主張を正当化するための装飾語に用いる著書は、あまり好きではありません。縦横無尽な博学を基に何かを導くのではなく、主張の正当化が目的となっているため、何かと何かを繋げるとき、都合の良いものだけを頭の引き出しから出してきて繋ぎ、他の繋がる可能性や選択肢を見ていないからです。話題がどんどん移っていくという形式こそスキゾ(分裂症)ですが、根幹はパラノ(偏執狂)ということです。当時はまだ中学生だったので私は今よりもさらに阿呆だったのですが、それでも「時代はスキゾ」と言えば言うほど、言っている人にパラノ的なものを感じていました。

人間とは何か、社会とは何か、ということについて何らかの規定をし(てしまっ)たならば、その逆も裏も対偶も、同時にこの世に存在し得ないはず。まあこれは何だってそうだ(これは決して「いろんな人がいるから世の中おもしろい」といったような言説で片付けることのできるような次元の話ではないです)。

ただし、思考を導く視点の使い方は慧眼としか言いようがない。

頭をほぐすには最適な本。新訳による文庫化は、まさにうってつけ。
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