多和田葉子『アメリカ 非道の大陸』



窓際の白いテーブルに本を立て、窓をあけると、レフ板のような雪。
画像上の縞は、除雪された道です。
二人称の小説『容疑者の夜行列車』で深く感動した私は、立て続けに刊行されたこれと短編集と詩集のうちどれをまずは読んでみようかと悩むことなく二人称のこれを最初に購入。とても読みやすくて2時間で読了してしまったけれど、倍の値段でもいいと思う。

ドイツに住むようになって一度日本語を消失した多和田葉子の言語感覚を小説として読むとき私は、外国人が「ケイオウは、大学と病院とデパートとホテルと電車、いろいろやってる会社だね、ワタシの国では考えられない、おまけにケイオウ病院へはケイオウではなくジェイアールで行くのはなぜなのか、ニッポンの鉄道会社はデパートから墓場まで線路で繋ぐ、だろ?」と言ってくるときに感じるブレと、似たものを感じる。それが時にはユーモアになり、時には底知れぬものとなる。放り出されたり、置いてけぼりをくらったりする。そして、そんな読み手のことなどおかまいなしに「あなた」の物語は進み、終わる。そうしたことの匙加減が自由自在、巧い。

笑っていいものかどうか、一瞬ひるむ。ひるむということは、脊髄反射的な笑いとは異なる。その種の笑い方を、私は知らない。この問題は根深く、カフカを読んでも、当時カフカの朗読を聞いていた人たちが笑い転げたのとは対照的に、私はあれこれ考えてしまう。物事はすべからくシンプルに、というのは私の20代の標語のようなものだった。これは仕事などでの処理能力にも関わってくる。でも、シンプルさすなわち本質に行きつくために、より緻密な方法論とアプローチの手法をとりいれるようになってしまった。なんてこった。

アメリカを抉る視点に、ヨーロッパに暮らす日本人らしいパースペクティヴがある。
というのは、凡庸な感想かもしれない。

私は他者だ、みんなそうだ。
というのも、なおさら安っぽい。

もどかしい。
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