応量器 Ouryou-ki Buddha bowl




「三衣一鉢」

修行僧が持つことを許される物、財産を表す言葉。
三つの衣と、ひとつの鉢。
衣は袈裟、鉢は応量器。
僧侶が僧侶であるためのもの。
これだけあれば、衣食住を満たすもの。
修行僧は、他に物を持たずに暮らしています。

ミニマリストも、死ぬまで使える食器セットが一組あれば良いのではと思います。
食器一組。それ以上削ぎ落とせないところまで削ぎ落とされているわけですから。
しかもそれが長く使えるものであれば、買い替えることもありません。

※2016年現在、取扱店が日本国内にはございません。実物をご覧になるには、石川県か、アメリカ合衆国か、イタリア共和国となります。メールでの注文を承っております。素材や品質については以下本文をご参照ください。色は黒と朱の2種類、形は丸底と平底の2種類ございます。問い合わせいただく際は、ご希望の色と形を伝えてくださいませ。
cotaniguchi@gmail.com までお問い合わせ・ご注文ください。
※最近、私が「たに屋の金沢店」であるかのような誤解を招くことを謳う人物がいます。私は2012年にたに屋から離れ、素材も職人も全く異なる応量器を作っております。現在、たに屋で製造販売している応量器と私は一切関係がございません。私が作っております応量器は、日本国内では一般の小売店に流通しておりません。ネットショップでも一切取り扱いがございません。お間違えのないようご注意願います。


■応量器とは
応量器とは、曹洞宗の僧が使う、食べ物を摂るときの器の名前です。入れ子になった器を指すことが多く「禅宗の僧侶が使う食器」といった説明をよく見かけますが、曹洞宗で応量器と呼ばれているのであり、臨済宗では持鉢、黄檗宗では自鉢(読みはともに「じはつ」)と呼ばれ、アイテム数も異なることがあります。ちなみに梵語ではパートラ、英語ではブッダボウルと呼ばれることが多いようです。それが応量器のみを指すのか、持鉢や自鉢も含めた呼び名なのかは判りません。英語では“Buddha bowl”と呼ばれていることが多く、近年では日本でも「ブッダボウル」と呼ぶ方も増えてきました。間違いではありませんが、せっかく日本で生まれた器で、日本語の名前があるのですから「おうりょうき」と呼ぶのが最もシンプルなのではと思います。「応量器とは何か」というときに「ブッダボウルだ」と答えれば良いのかもしれませんし、トートロジー的な事態に陥るのかもしれません。

「曹洞宗の修行僧が使う応量器」というフレーズを使っている作り手や売り手もいますが、実際はお寺へ納めていないことが多いようです。正式には入れ子になったお椀だけではなく、他にいろいろと付きます。ここでは便宜的に、入れ子のお椀を応量器とします。

ちなみに、ロシアの入れ子人形マトリョーシカは、応量器を参考にして作られた12入れ子タマゴを参考にして作られた箱根入れ子七福神を参考にして作られるようになりました。あのかわいい入れ子人形の起源は、応量器なんですよ。

■応量器の歴史
かつて応量器は鉄で作られていました。しかし鉄器は材料の入手も製造も大変です。そこで、黒塗り(茶色い透明の樹液である漆に酸化鉄を加えて黒色にする)なら鉄と同じ扱いということで漆器が許されました。おおよそ16世紀ごろのことと聞いています。漆器は木と樹液で作ることができるので急速に広まり、今では漆器がほとんどになりました。現在でも応量器のことを「鉄鉢」(てっぱつ)と呼ぶことがあるのは、その名残りですね。応量器の名前の由来は、食べるものの量に応じた器、という意味を含んでいます。曹洞宗では器で、臨済宗と黄檗宗では鉢なのはなぜなのか。それは私も勉強不足です。



■応量器のかたち
形状には厳格な決まりがあります。それらを守っていないものは、応量器と名乗っているだけの単なる入れ子のお椀に過ぎません。一般的に流通しているのはそのようなものが多く、少し残念に思います。お寺に納めている、ほんとうの意味で応量器と名乗ることができるものは、ほとんどインターネットでは見かけません。

現在の応量器は、5つのアイテムが入れ子状に収まります。食事の際は、必要に応じた数を使います。朝食には3つ。おかゆ、汁もの、漬けもの(お新香)です。夕食では6つ全て使い、ごはん、汁もの、漬けもの、おかず、おかず、の5品(いちばん小さなお皿は、いちばん大きな器の下に敷く)のようです。

形状について最も特徴的なのは、いちばん外側の器がふくらんでいることでしょう。これがなければ同じサイズの木材を使っても容量を増やすことができますし、実際そういう形で「応量器」と名づけられた「商品」も見かけます。このいちばん外側の器は頭鉢(づはつ)と言われ、お釈迦様の頭と同じ扱いです。厳密にいうと頭鉢は「食器」ではないのです。そのため、直接口をつけることはご法度。受けるのはシャリ。お粥をいただくときには箸ではなく匙を使うので、すくいやすいように内側へカーブしています。口をつけて食べやすいように薄くなっているものは、応量器ではありません。

正式な応量器の使い方は、いちばん内側に収まる、いちばん小さなお皿(鉢揲)を、いちばん大きな頭鉢の下に敷いて使います。お釈迦様の頭を同じ高さに置くわけにはいかないのです。そのふたつがくっついた、なんだか下のほうが伸びた形の応量器を目にしたことがあるかもしれません。あれは、簡略化してあるわけですね。

いただくものは、もちろん精進料理です。曹洞宗の道元禅師は、宗教としては珍しく、食べることを非常に重視していました。主な役職の中に、食事係がいます。いろんな組織で、あまり食事係の地位が高くないのが現実。命を頂戴する、ということの奥深さや業などを考えさせられます。

精進料理というと、動物性タンパクのない料理、です。魚・肉・卵・乳製品はダメです。道元禅師は、さらに厳しくしました。もちろんお酒はダメ。そして、匂いのきつい野菜もダメなのです。五葷(ごくん)と呼ばれ、一般的には、にんにく、にら、しょうが、ねぎ、らっきょう、とされています。欲望を活性化させてしまう食べ物を食べていては、修行にならないというわけです。ベジタリアン、ヴィーガン、そしてマクロビオティックとは似て非なるものです。根本的に。



■匙、箸、刷
いただくときのカトラリーもあります。うちでは禅僧三点揃という名前。匙、箸、刷です。匙は、直接口をつけてはいけない頭鉢でおかゆをいただくときに使います。箸は、ふつうに箸。断面は楕円です。刷は、僧が食事を摂ったあと、布を巻いて応量器を水またはお湯で洗います。箸だけほしいという方もいらっしゃいます。上記のようなことを押しつけるつもりもないので、単品でお譲りしています。



■作法
応量器を使った食事のいただき方には厳密な作法があります。いただく前に五観の偈(ごかんのげ)を唱えます。匙と箸の置き方も、いわゆる日本料理の作法とは異なります。箸は持つほうを奥にして斜めに器の上へ置きます。匙は、持つほうを12時、ボウル側を6時の向きに、お粥を盛った頭鉢へ挿します。いただくときには、匙を奥から手前に挿した頭鉢を、両手で持ち掲げます。フレミングの右手の法則のような指のかたちです。下の画像のような感じです。あくまでも「感じ」です。そして、片手で匙を持ち上げて縦向きにいただきます。おかゆがスムースに口へ入ります。何しろ、音を立ててはいけないのですから(沢庵を、音を立てずに食べることができるようになるのも、修行のひとつです。というか曹洞宗では生活の全てが修行です)。

ランチョンマットのような用途として鉢単(はったん)が使われています。和紙に漆を何度も染み込ませたもので、使わないときは折り畳んで収納します。大本山永平寺から見本の鉢単をあずかり現在延々と試作中、満足いく鉢単がもうすぐできます。全国を探し回ってようやく折り畳みに耐える和紙を入手(というか特別に注文します)できました。修行僧の持ち物は、持ち運びできるものばかり。本来の応量器に出っ張りがなく、内側に収まるにつれ高さが低くなるのも、そのためだと思われます。



■応量器の色
色は、黒と洗朱です。修行僧が使うのは、黒です。頭鉢を持って托鉢に出たりしています。4色分解だとM85+Y85の洗朱は、修業を終えた位の高い僧が持つことができると言われていたり、儀式で用いると言われていたりします。神社や鳥居の色にあるように古くから日本では宗教の世界において位の高い色でした。赤い漆としては他に朱がありますが、それはいわゆる赤です。赤は、古くは庶民が使う色でした。ですので「赤い応量器」というのは、少々頭がややこしくなります。丸っこいかたちで、モダンなインテリアにもミニマムなインテリアにも合いますし、ミッドセンチュリーのオレンジとも合います。外国人の購入も増えています。白いテーブルや無垢のテーブルにオレンジの食器、その相性の良さを発見したのは外国人です。



■品質
毎日毎食、僧は応量器で食事を摂ります。そして、水やお湯(やかんで注いだり、川だったり)で拭います。それが「食器洗い」なわけです。そういった使い方に耐えることのできる品質を備えていないと、すぐに漆が剥げ、使いものにならなくなってしまいます。木の乾燥(木の板が反っている床を見たことがあると思います。ああなってしまっては器としては使い物になりませんね)に時間と手間をかけ、昔ながらの自然素材だけから吟味し、手慣れた職人によって仕上げられたものが、いちばん長もちします。洗剤で洗っても問題がないですし、熱いものを注いでも割れることはありません。割れるのは、木地の乾燥がなっていないか、漆に混ぜ物をしているからです。そういうのが市場にほとんどとなったため、漆器は扱いづらいというイメージが蔓延してしまいました。

これは、残念ながら新品では判らないことです。
何年か使って差が出てくるものです。
ジーンズだってそうですし、漆器なんてまさにそうです。

■私が作る応量器について
法衣店から、禅僧が使うものとして注文をいただき、作りはじめました。お寺からあずかった応量器を眺め、手にとり、検討しました。そして、頭鉢の底の形状を変えること、精度を上げることが必要であること、下地をしっかりと施す必要があることなどが導き出されました。

頭鉢の形状については、いちばん小さい皿を敷き、その上に頭鉢を乗せるため、お寺からあずかった応量器は底が丸いものでした。下の画像のものです。固いテーブルの上などでは安定しません。ここをどうするかが、お寺さん、法衣店、うちの三者で何度もやりとりが繰り返されました。



結論として、底を少しだけ平らにしました。厳密には平らではなく、ほんのわずかにへこんでいます。いちばん小さい皿を下に敷くと、平らになっている部分は見えません。この形状のものも、曹洞宗のお寺にお納めしています。そして、このかたちになったため、一般のご家庭でも使えるようになったのです。



※現在は、底が丸いものも一般向けにお出ししています。

精度については、木地のろくろ挽きの精度もありますが、その前の乾燥も大切です。できあがったばかりのものは差がなくても、ほんの数か月で違いが出てきます。最適な乾燥をしていないと、木は変形します。乾燥は、あまり目を配らずに放っておくとぐだぐだな木地になり、急激に乾燥しすぎても割れます。山中でも珍しいのですが、私は必ず薫煙乾燥です。さらに、山中漆器が最も得意とするろくろ挽きと、ろくろ挽きの木地に施すことを得意とする下地によって、寸分の狂いもない、均等に間隔の開いた入れ子ができあがります。塗りは、塗りというだけあって、表面に施すものです。木地や下地が駄目だと、どう塗っても美しくなりません。

下の画像は、左が、お寺から見本であずかった応量器。右が、私が作る応量器。
いろいろご覧になれば、私の手がけた形状が模倣されまくっていることに気づくと思います。



左の応量器、見本として預かった応量器が放つ雰囲気は、それはそれはすばらしいものです。これはなかなかできるものではありません。毎日毎日大切に使われたものだけが放つオーラをまとっています。オーラは作る時点で「作る」ことはできませんが、長年使ううちにオーラを放つものであるためには、ただ作るだけでは無理です。

でも、ひび割れがありますし、縁は漆が剥げてきています。恐らく下地を施していないのでしょう、木が露わになっています。こうなってしまっては、液体を吸い込んでしまいますし、木地と空気中の水分が常に触れることになってしまいます。そうなると、崩壊は遠い未来の話ではありません。話は逸れますが、漆を栽培している作り手に、しばしば「下地は施さず、最も丈夫な、漆だけを塗り重ねて仕上げました」という売り文句を目にするのですが、もし仮にそうなら、わざわざ面倒な下地など施しません。材料は高価、道具も自作、そしてなによりも、下地は毎日作業しても1か月ほどかかる工程なのです。そんなことやんなくていいなら、やんないですよ。でも、やります。なぜなら、そのほうが丈夫な器になるからです。

話を戻しますと、画像の左のように作ることもできます。そのほうが楽です。でも、その通りに作ればいいとは考えません。言われなくても、もっと良くなる可能性があるなら、します。内側にいくに連れてへこんでいるように見えるデザイン。そのために、器の高さはもちろんのこと、内側の深さまでも計算しています。さらに、入れ子のお椀の場合は特に、下地や塗りの厚みも計算に入れておかなければなりません。6つが入れ子の応量器、1ミリ違ったら、5ミリ違うことになります。このたたずまいは、計算を正確に実現する職人の技術によって成立しているのです。その結果、この応量器は、応量器というものが古くからあるものにも拘わらず、石川県デザインセンター選定品となりました。その後、私が手がけるようになり、箸の形状やそれぞれの器の縁の厚みなど、幾度となく微細な改良を重ねています。お寺からの要望もありますし、私の考えもあります。

下の画像のように均等な間隔を作ることは、少し前までは固体差がありました。現在は、どれを組み合わせても均等になります。そして見た目だけではなく素材と技法についても、私は父が手がけていた頃よりも、より手厳しくしています。長年使えるもの、という目的には、さまざまな側面で考慮しなければならないことがあります。雑誌やテレビで禅宗が紹介されているとき、私が作った応量器か否か、すぐに判ります。自分で作ったものは判るものです。知人や取引先も、見つけてくれます。今日も、曹洞宗のお寺で、応量器で食事を摂っている修行僧がいます。私は、修行僧に思いを馳せ、さまざまな、言葉にすることが難しい気持ちを抱きます。



その後、一般にも販売をはじめました。応量器の販売を始めたのは、ある理由からです。父の代においては、応量器は漆器のギャラリーや全国の工芸品を展示している場所にしか出していませんでした。入れ子になった応量器は、山中漆器の特質が如実に顕われているからです。そして、私が帰郷してすぐの頃、とある方から連絡をいただきました。ショップをオープンする、南部鉄や曲げわっぱなど日本の工芸品を取り扱う、自分でたに屋の応量器を以前から毎朝使っている、取り扱いたい、ということでした。私は麻布の、できたばかりのショップを訪れました。

麻布のショップは、すてきでした。昔からあるものばかりなのに、洗練されていてモダンな印象を受けます。応量器についてもかなりの知識を持っていました。資料や図版もあります。応量器という名前の商品は数あれど、私が手がけるものが実際にお寺で使われているものだと判断したようです。私は仕事の話を始めました。漆器は日光と乾燥に弱いので、陳列するときに気をつけることを伝えました。応量器をさがしている人がそのショップを見ると、なんだか格好だけのお店に映るかもしれません。でも、ほんものです。それからは、そのショップ経由でさまざまな雑誌に取り上げられ、曹洞宗の僧以外の方も目にする機会が増えました。



漆器の世界は「これが売れる」と知ったら真似をする人が多いです。そのおかげで、応量器は、銘々皿や菓子鉢といったような「商品カテゴリ」だと漆器の世界にいる人は思っています。そうしちゃえば、誰でも作る権利があるからです。ネットで検索してみてください。ほとんどが「応量器は売れる」から作ったものばかりです。お寺に納めている人は、市販しません。という単純な構造にお気づきください。私は、応量器を手がける者として、実態を知っていただきたいために、こうしてブログに書いています。

■価格差の理由
うちの応量器は廉価です。巷には6万円を超えるものまであります。なぜそのような価格差が出るのでしょうか。まず、入れ子になったお椀の場合、漆を塗る前(さらに下地を施す前)の木地は、ほとんどが山中で作られています(茶道具の棗や香合も)。他の産地の作家や職人や漆器屋は、それを仕入れて漆を塗ったり絵を描いたりして完成させ、販売しています。つまり、流通コストが乗ってしまっているわけですね。匙だけで1万円するものも見かけますが、同じ理由です。山中漆器の中にも劣悪な模倣品があるのですが、それはまた別の機会に。

似たような価格のものもありますが、下地と塗りが粗悪と言ったら言い過ぎですが長年の使用に耐えられるかどうか不安なものがあります。どれとは言いませんが、中国で旋盤を使って木地を挽き、溶剤による下地と溶剤を混ぜた漆を吹き付けたものが3万円台後半で売られています。ネットで検索すると、そういったものばかりです。困ったことです。漆器が耐久性に劣るというイメージは、そうした「よく目にする漆器」が質を追求していないからです。反対に品質は低いけれど高価なものもあります。なぜ高価なのかというと、高いほうが良いと思っちゃうところにつけ込んでいるのです。漆器は、高いから良いとは限りません。ご注意ください。漆器の世界は、いかにも「職人」という雰囲気を醸していても、外注して手離れを良くして高く売ることを考えている「商売人」がほとんどです。

漆器の価格とは非常に不思議なもので、慣れない人が作ると高価になります。というのも、職人は今でも日当計算しているからです。作ったことのない職人が作ると、クオリティが一定ではなく、なおかつ高価になります。慣れた職人は同じ動作を何十年と繰り返して手さばきが洗練されているため仕事が早いので、クオリティを高く維持し、なおかつ安価。私がつくる応量器は、修理のために戻ってきたことは一度もありません。10年間毎日使っても、剥げもしないし割れもしません。下地を施していない拭漆仕上げのものをふだん自分で使っています。まだ使い始めて4年と少し。新品同様です。

※2010年から、黒を使っています。ざっと計算すると150回ほど使った時点で、雑誌の撮影に使いました。さらに200回ほど使ったところで再び雑誌の撮影に使われました。まっとうに作れば、それくらいは余裕で「新品さ」を保てるのです。そしていずれは、新品では決して出すことのできない雰囲気を醸す器となるでしょう。



現在、私が作る応量器を購入できるところは、ありません。

※2012年より、父が手がけているものよりもさらに精度を高め、素材を吟味し、作っております。
「たに屋 応量器」として売られているものとは、素材も技術も全くの別物です。

主な変更点は
・木地となる素材の見直し
(国産の栃の中でも良いところを、適切に寝かせ、適切に乾燥させる)
・ろくろ挽きの手法
(山中漆器でも通常は3点支持だが、さらに多くの箇所で支持して正円に挽く。紙ヤスリは不使用)
・下地素材の見直し
(木地固めや下地の錆地に使う漆は国産100%)
・塗り素材の見直し
(下塗りと中塗りは国産漆100%で上塗は中国産70%に国産30%の混合)
です。
日本伝統工芸展で最高賞を受賞した木地師など、現在考えうる最高の職人の手によって全工程を作っています。

理由は、第一に耐久性、第二に精度です。販売価格は変えません。つまり、通常の、私たち製造者→卸→小売、という流通形態では無理となりました。通常の流通形態で価格を出すと、8万円台後半になってしまいます(それでも構わないという小売店がいらっしゃれば、喜んで置かせていただきます)。そのため現在は、私が作る応量器を取り扱う小売店がありません。目に触れる機会が激減しました。

漆器の世界にいる人たちは、よりコストを抑えることで頭がいっぱいです。そのほうが儲けられるから。でも私は真逆です。より良くできる余地があるなら、そんな余地などすぐに埋めてしまいたくなるのです。その結果として価格を上げざるを得なくなっても、できるだけ上がらないように、できるだけ手の届きやすい価格にするために、流通形態すら再考します。また、産直価格とか謳っている作り手や産地のwebショップも実態はかなりの粗利率です。というのも、同じものが同じ値段で百貨店の催事に並んでいたりするのですから。

もちろん私のところへお越しになればご覧いただけます。
メールによる直接のご注文も承っております。
送料は私が負担してお送りします。
お気に召したなら、購入してください。
お気に召さない場合は送料着払いで返送してください。

拭漆の画像はこちらを参照ください。

冒頭で述べた通り、応量器は曹洞宗で使われる器の名前です。臨済宗では持鉢、黄檗宗では自鉢。それぞれ形状が異なりますし、枚数も違います。巷で応量器と名乗って売られているものは、ほとんどが「応量器」ではありません。単なる「入れ子のお椀」です。ではなぜそれを応量器として作って売るのか。そうしたほうが売れるからです。ほんとうに曹洞宗の雲水が使う応量器は、ネットで探しても、実際にお店をまわっても、出てきません。流通構造が異なるのです。実際にお寺へ納めている応量器を作っている人たちは、わざわざそんなこと世間に広く言い触れる必要などありません。で、そこにつけこんで、禅宗とか精進料理とかマクロビとかのイメージに結びつけやすいから、何のゆかりもない入れ子のお椀に応量器を名前をつけて作ったり売ったりする人が増えてきたのです。

じゃあなんでおまえはこんなに長々と書いてんだ、これも宣伝だろ、と思うかもしれませんが、私は、正しくは、ということを知っていただきたいがゆえに細かいことまで書いたのです。「厳しいというイメージがある禅宗、でも応量器にルールなんてない」などと書いている有名な雑誌まで出てくる昨今。なんでも許されるようなだらしなさが忍び寄り、正しいことを守り続けることすら困難です。ほんとのことを知ってください、という気持ちで書きました。その上で、もっと廉価な何ら曹洞宗と関係のない「応量器」という商品名がつけられたものを選ぶのも、もちろん自由です。

私は、応量器というものを知ってもらうため、その意味を知ってもらうため、割と手を尽くしてきております。たとえばもし私たちの手がける「入れ子のお椀」が応量器ではなく、臨済宗の持鉢だったとしたら。「応量器」はここまでありふれたものではなく、そのかわりに「持鉢」という言葉がネットやショップや雑誌に溢れていたでしょう。数学や論理学を持ち出すまでもなく容易に推測できます。これは自慢ではなく、疑問です。なぜ便乗者たちは「持鉢」という商品名で開拓しようとはしないのか。便乗するほうが「楽」だからなのでしょうけど、非常にさびしいことです。

応量器をお買い求めの際は
・ほんとうに曹洞宗のお寺で使われているか
・古来からの形と色を継承しているか
・素材は不安のないものか
・匙と箸と刷も扱っているか
といったことをご確認ください。

私が手がける応量器は、どこに出してもはずかしくない、ほんものです。


Wikipedia日本版:応量器

amazon.co.jp:道元「典座教訓・赴粥飯法」
amazon.co.jp:高梨尚之「典座和尚の精進料理―家庭で楽しむ110レシピ」
てらブログ:応量器が届きました


木地は国産のケヤキを縦木取りして薫煙乾燥。
仕上げというか帳尻合わせの紙ヤスリは使いません。



下地は、能登産の地の粉と京都産の砥の粉、そして木地固めも下地も国産漆100%となりました。
下地の錆つけは、カーブに沿った形状のヘラで、少しずつ。それを3回繰り返します。




(日章旗をイメージして撮ったので、実際より赤が濃くて色味も異なります)

※ふだん私が食事を頂いている画像は削除しました。下リンクの関連記事をご覧くださいませ。

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コメント

住友様
メールアドレスが判らず、お返事できません。
誠にお手数とは存じますが cotaniguchi@gmail.com までメールくださいますでしょうか。
宜しくお願い致します。

TAKA様

ありがとうございます。
お返事が遅れて申し訳ないです。
はい、そうです。
ただ、取引先によっては情報が古い場合もあり、
現在では取り扱っていないこともあります。
そのため、ネット上で決め打ちせず、
お気軽にお問い合わせするのがよろしいかと思います。

何かありましたらお気軽にメールくださいませ。

応量器について

色々な応量器を見てきましたが、一生使うものと考え、貴殿の作られたものを購入したく考えております。

そこでひとつお伺いしたいのですが、
たに屋という名称で販売されている応量器は、貴殿の作られたものと考えてよろしいでしょうか?

ご多忙中大変申し訳ありませんが、お教え頂けますと助かります。

お願い

 直接メールを差し上げたかったのですがアドレスを見つけることができなかったので、コメント欄を使い、ハンドルネームで失礼します。
 マトリョーシカから、箱根入れ子人形、ロクロ、応量器と進んで、貴サイトにたどり着きました。
 膨大な量なので拾い読みの域を超えないのですが、「作品は、力量ある作家ほど労力が少なくてすむので安くできる」「食器の塗装に有害顔料を使用しない」など、色々と参考になります。
 特に顔料の毒性に配慮されていることについては、「朱は水銀」「水銀は有害」とバラバラには知っていても、「朱塗りは朱を使う」という先入観があって、三者が頭の中でつながっていなかったので、「目からうろこ~」の思いです。

 ところで、ブログを拝見する内に、おうかがいして品物等を直接拝見させていただきたくなりました。
 ご迷惑でなければゴールデンウイークの中頃にお訪ねしたいのですが、ご都合はいかがでしょうか。
 突然、不躾なお願いをコメント欄に書き込みますが、メールでご都合をお知らせ頂ければ幸いです。

 劈頭に書きました「マトリョーシカ」~「応量器」までの経緯は私のブログで紹介しております。
 アドレスを貼り付けておきますので、よろしければ御覧ください。

http://drab.at.webry.info/200901/article_1.html

 突然勝手なお願いをしお煩わせしますが、何卒よろしくお願いします。

DASO様

場所は、数字で表すと、緯度36度16分14.747秒(36.270763)、
経度 136度21分39.384秒(136.36094)です。

地元以外の方には
Googleマップで「たに屋」と入力していただいております。
http://maps.google.co.jp/
お手数とは存じますが、いちばん把握しやすい方法です。

場所というより道順は、クルマの場合、小松方面から
国道8号を小松市東山ICから約13km、西島交差点を左折、石川県道150号を1.9kmで2つ目の信号。その信号(山代温泉東口交差点)で石川県道11号小松山中線に当たるので右折。6つ目の信号(別所口交差点)を左折(11号も左折しています)、そのあと2つ目の信号を過ぎてから500m。小さな坂をのぼったら弊店でございます。山代温泉東口から3.3kmです。

自転車の場合は粟津温泉から11号を使うほうが安全です。

電車の場合は加賀温泉駅から山中温泉行きのバスに乗り「二天(にてん)」で降車。左斜め前の坂を下り、橋を渡り、信号を右折、そこから350mです。

ヘリの場合は、お客さまに場外離着陸場の許可申請をしていただいております。弊店の屋上にはヘリパッドがありません。

お出になる直前でもかまいませんので、お電話いただければと存じます。職人のところなどへ出回っておりますゆえ、不在の確率のほうが高いんです。

お気をつけてお越しくださいませ。

どうやってお店に行けますか?

小松市に住んでいるので、お店に行きたいのですが、肝心の店の場所が見つかりません。教えてください。

not subject

加賀日和タカヤナギ様
こんにちは。お褒めいただきありがとうございます。
用の美という言葉には疑いを持っています。デザインされたものにつける、一種のカテゴリ分けするイメージ、バズワードのような気がします。ほんとうに「用」のためだけの形なら、機能一点張りの無骨なものも用の美と言われるはずです。また、自然美に近づこうとする美というか、人間が美しいと思う自然の中の形に近づこうとする美が、用の美と言われがちな気がします。アーティフィシャルな方向における美しさを追求した美は、機能美とかデコラティブとか実用的とかハイブロウとか言われるような気もします。用の美とは、自然を支配して改良することが「アート」であり「美学」である西洋にはない、日本的な概念ですね。必然の美という言葉、気に入りました。
私は自然の中に潜むフィボナッチ数などを眺めるとうっとりしたり驚嘆したりします。でも、それをそのまま自分が「作る」ものに投影しても無意味だとも思っています。美しいものを作ることが目的となると、理論が不在で作り手個々の嗜好に依ってしまいます。そのテイストに共感できる(美しいと感じる)人が購入するわけですね。「これかわいい」「これすてき」といった感じです。漆器や陶磁器が「工芸品」という芸術のように思われているためにこのような事態になっているのでしょう。でも、ほんとうに美しいものは宗教や時代や民族の境界を超えて普遍的に美しいと感じるものです。それを勘違いして、何の特徴もない凡庸なものが「ユニヴァーサル」だとされる風潮もあります。プロダクトデザインにおいては、理論と根拠と「そうしなければならない」目的が存在します。美しさとは、目的ではなく、結果として形に表れるものです。話が長くなるのでこのへんにしておきます。
楽器は見ただけで判りますね。優美だったり、なまめかしかったり、力強かったり、ぺらぺらだったり。カーブが少し異なるだけで大きく変わります。人間の顔と同じですね。カメラは手で持つ小さなものなので特にそうかもしれません。自転車やドアノブなどあらゆる「製品」が、スペックには表れないところまで考えられているか否かで使い心地が変わってきますね。
ブログの画像は、明記しているものを除き全て私が撮っています。画像解析すれば一目瞭然、200万画素の古いカメラです。おまけにブログ向けに軽くしています。光はすべて自然光、映り込みもひどいです。

i様
ありがとうございます。同世代の女性がかっこいいと感じるのも、とてもうれしいことです。

not subject

かっこいい!

欲しくなります

実物を見ずとも、触れずとも、この写真だけでその佇まいの美しさに感激しました。必然の美というのか、これを用の美と表現していいのか、専門家ではない僕にはわかりませんが。

話はずれますが、形の美しいものは性能も優れていますよね。僕は10年以上トランペットを吹いていていくつもの楽器に触れてきましたが、やはりフォルムの美しい楽器は良い音が出るように思います。

今、仕事でカメラを使いますが、写真の写り具合という点だけで見ると機械的性能とカメラのデザインは直接は関係ないとも言えますが、カメラとしての美しさ、塗装の具合、グリップした時の感触を含め、美しいカメラはただそれだけで良い写真が撮れるぞという気分にさせてくれますし、実際に写真を撮る行為の中で、そういう気分はかなり重要だったりします。

ところで、ここに掲載されている写真は、ご自分で撮られたのですか?
光と影がとても綺麗ですね。
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