フォークナー『響きと怒り』



とてもおもしろく、読みごたえのある小説。
岩波文庫から新訳が出たので読んでみた。
講談社文芸文庫で読んで、さっぱり中身を掴めず、二度目に頭をフル回転させながら読み、感動した。まださほど前ではないときのことだ。大きく分けると四章。フォークナーは純粋に第一章を書いた。そして、出版にこぎつけるために残りの三章を書いた。

章ごとに語り手は変わる。第一章は、白痴。第一章における現在は、1928年4月7日。だが、複雑に現在と過去(のいくつか)が入り組んでいる。段落の最初に日付などない。地の文が過去を回想しているときは反対に現在のできごとや台詞が太ゴシック(講談社文芸文庫では斜体、原文ではイタリック)になる。おまけに語り手は白痴なので文章になっていないところもある。意識の流れを取り入れた中でも白眉。時間が伸び縮みする。読みにくく、まさにひとりの人間の頭の中で流れる意識そのままになっている。ヴァージニア・ウルフにおける意識の流れは、現実を見る目にフィルタがかかっているようなものだ。ジョイスにおける意識の流れは、ふだんの私たちの生活通りだ。

第二章は、自殺を考えている青年。1910年6月2日。これも同じく錯綜している。
第三章は、物欲にとりつかれた青年。1928年4月6日。ここは、過去は回想と判る。
第四章は語り手のいない客観的な描写。1928年4月8日。物語がまとまり、結末。

この小説は技巧だけでなく物語としても非常におもしろい。血統を綴った物語、まさしく血筋だ。斬新な手法をいくつもとりいれた小説でありながら、すさまじいエネルギーが噴出する。命と力に満ち満ちて、五感を総動員させられる。言葉で織り成す小説が、これほどまでに豊穣なものかと圧倒される。読むと当然疲れる。

どちらが読みやすいかといえば、格闘した講談社文芸文庫のほうが私はもう馴染んでいる。斜体で処理しているところも私向き。黒人の台詞はどちらも東北訛りのようである。斜体にしたり太ゴシックにしたりとどちらも工夫している。「目をつけよう」の目は、どちらもイラストの眼だ。立ち読みして気に入ったほうを選べばいいと思う。値段もさほど変わらない。この小説は、翻訳がどうとかいう次元ではない。

解説にあたる部分について。「響きと怒り」発表から15年後に出た「コンプソン一族」は、双方についている。講談社文芸文庫は、フォークナーについてページを割いていて、次に「響きと怒り」のあらすじと構造について、最後に年譜。岩波文庫はさすがの後出しじゃんけん、特に時間が錯綜する第一章と第二章については主要な出来事の年表、備考、とどめは懇切丁寧な場面転換表がついている。さらに舞台となるコンプソン家の見取図、間取図、登場人物のひとりが移動した地図、そして膨大な註と解説。これだけあれば初読でも混乱することはないだろう。でも、そうやってひとつひとつ確認しながら読んで楽しいかどうかは、判らない。晦渋な小説を読み解くことはかなりの快楽だから、その快楽を放棄するのはもったいないような気がしないでもない。でも便利。正直言って助かる。とはいうものの、話に魅き込まれて読み進めてしまうので全てを確認しながら読むことなどできなかった。うーん。
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コメント

kyokyom様
こんばんは。実質以上に難しいイメージに書いてしまったかもしれませんね。『八月の光』も重層的ですし、最後に全てがカチッと決まるし、登場人物のキャラ設定が極端なのにリアルという共通点はあると思います。凝った小説が好きなもので。
『八月の光』を途中で投げ出す人も多い中、面白く読めたのなら絶対におすすめです。岩波文庫特別附録のチェックも面倒になるくらい、話にのめりこみます。
野球の打順にあてはめるやつ、ちょっと考えてみましたが無理でした。やはり売上が最重要ファクターですね。打率であったりホームラン数であったり打点であったり。現在進行形の日本文芸には疎いことを再認識しただけでした。社会システムが変わってしまったのですが、四番五番にしっくりくる谷崎三島並みの大文豪の登場が望まれるところです。海外なら四番ガルシア=マルケス、五番スティーヴン・キング、ってところですかね。DHは泣く泣くシドニイ・シェルダンかJ.K.ローリングで。

kotaさん、こんにちはー。
『八月の光』がとても面白かったので、この作品も気になっていたのですけど、うーん、『八月の光』の読後感の延長で期待するとちょっと厳しそうですね。
それにしてもどちらの訳で読むかやはりちょっと悩んでしまいます。
>岩波文庫はさすがの後出しじゃんけん
後だしジャンケンはいいですね^^
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