リシャール・コラス『遥かなる航跡』



先日取材でお越しになった人と手触りの話になったとき、シャネルの化粧品にまつわる秘密を聞いた。まず驚き、二拍おいてから、ああやっぱりシャネルは違うと納得した。シャネルは化粧品のパッケージにまでこだわっている。イタリア車が人気なのも、同じこと。ギアとハンドルの感触が、確実に違う。あるショコラ店も、箱に異様なまでこだわっている。開けるという動作によろこびが生まれる。私が使うオーディオも、そうだ。質感や感触は、めざす理想がなければどれだけスペックを積み上げても生み出すことができない。
さてこれは、シャネル日本法人社長Richard Collasse氏が書いた小説“La Trace”の邦訳。誰でもひとつだけは小説を書くことができる、という大学のゼミの先生の言葉を思い出した。つまり重要なのは書き続けることができるか否かということなのだけれど、小説家として一生食べていこうという勘違いをしなければ、稀にこのようなすてきな小説ができあがる。それまで生きてきたすべてが詰め込まれているから。そしてそれは、恋愛小説であることが多い。

有名な話だが、著者は18歳の夏、カメラがほしくて日本を訪れた。そして大学で日本語を学び、卒業した1975年に日本へ渡った。フランス大使館儀典課、ジバンシィ日本法人代表、シャネル香水化粧品本部本部長、そしてシャネル日本法人社長。フランス商工会議所会頭、欧州ビジネス協会会長も務め、シュバリエ章やレジオン・ドヌール勲章も受賞。現在は古材を使った離れを建てていて、今は作られることのない摺りガラスなどを使っている。着物を着て、浮世絵とこけしを集めている。引越ししたら近所に蕎麦を配る。私は、そんなことをしている人を知らない。

帯には「十八歳の夏、日本。人生を狂わせた運命の恋」とある。そりゃそうだ。恋が上手くいこうがいくまいが、人生は変わる。とコピーにけちをつけてもしょうがないのだけれど、重要なのは前半部分の“十八歳の夏、日本。”だ。明らかに自伝的な小説だと判る。大学で日本語を学んだのはそのためかとまで考えてしまう。流暢な日本語を話すコラスだが、小説はフランス語で書かれた。

2006年11月に8000部印刷されて売れてしまい、2月末にようやく第二刷が2000部出た。なぜそんなに売れたのかというと、某人気グループのIメンバーがブログでおすすめしたからである。ちなみにIメンバーとコラス氏は先月号の「BOAO」で対談している。

主人公はフランス人。恋する相手は日本人女性。舞台は、鎌倉、銀座、有楽町、北千束、芦屋、倉敷、広島、高松、そして瀬戸田、パリ。ノスタルジアの洪水。キラキラとした海、熱い砂浜、光が黄色く傾いてきたころの縁日、秩序だってよそよそしい街、そういったことが見事に描かれている。若かったころの世界の見え方が、残酷さを感じるくらいに切り取られている。「作品には魂がこもる」と何度も発言している氏は、銀座ビルに建設した人たちの名前を刻印した。この小説には、魂の奥底に30年間宿っていた思いが込められている。これは今年読んだ中でもベストと断言したいのだけれど、ベストは再来週に紹介します。

外国人から見た日本文化、比較文化として読むこともできる。そうした描写も数多く登場する。バスグローブだと思っていた小さな布切れ(バスタオルのことだ)でどうして全身を拭くことができるのか、といった東西文化の違いだけではなく階層の違いにもよるものまでもある。しかし、そのような読み方はもったいない。日本人同士の恋愛小説でも立場の違いや育ちの違いが障壁になったものがあるし、差異を強調した小説だってある。これはそこが根幹の小説ではない。それらはあくまでも著者の或る「想い」を描くための装置に過ぎないし、恋した女性が日本人だったに過ぎない。白と赤を使った装幀。カバーは3色だけれど謙虚。白と赤は日本的な色づかいだし、表1の写真は神社かどこかで遊ぶ浴衣を着た子どもたちだけれど、日本「的」ではない。赤一色で分解された写真は、体験したことがないはずなのに記憶の中にある風景のようだ。

あとがきもおもしろかった。最初は編集者からゴーストライターを使った自叙伝を打診されたが、小説を自分で書きたいと提案したこと、そして編集者の名前が書かれている。なんというか……なんとも言えない。

先日フランスでは、親中派の大統領が誕生した。
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コメント

kyokyom様

こんばんは。
あらら、著書で感じたことと同じような感じでしたか。……なおさら観たくなりました。この人はお金をたくさん持っています。でも、地に足がついた感じがするんですよね。メルセデスで吉野家に行くような日本の田舎で見られる光景とは正反対というか。「人生お金じゃないよ」という台詞は、お金を持っている人しか言えない気がします。なので私にはそのようなことを言う資格がないわけです。ただ、あってもなくても楽しくできますし、楽しくないこともあると思います。

いろいろ夢想するのは、現在の自分が基準になります。で、夢想していた暮らしが実現したら幸せになるか。なるケースは少ないように思えます。基準となる現実が変わり、さらに夢想が出てきます。そして、お金があるほどそれは目の前に提示されて決定的な差異を見せつけられます。ふつうは「二億あったら家建てて悠々自適に暮らすよ」と考える人が多いです。でも、そうできる人は稀です。数千万円のクルーザーとか会員制のレストランとかペントハウスとかは「二億あったら家建てて悠々自適に暮らすよ」と考えている人にとっては別世界なので興味ないですし、むしろそんなことにお金を遣うことを馬鹿みたいと考えています。しかし、それらが別世界ではなく生活範囲の隣になれば求めるようになります。欲望にはきりがないんです。お金を持っている人たちの社会に片足でも突っ込んだら、さらに大変なことになるわけです。つまり、どこになっても変わらないんです。お金を基準にするのは、逃れられないとも言えます。なので、できればお金にとらわれないのがいいのではという気がします。

たくさんお金があったのになくなってしまった人が不幸ではないでしょうかね。

kotaさん、こんにちは。
以前コメント頂いたコラス氏を追ったドキュメンタリーですが、kotaさんがこちらで書かれていることをそのまま番組にしたような内容で付け足すことはないようですv-20
この人のことを見ていて思ったのですが、お金が有っても無くても楽しく過ごす方法というのはどういうことなのかな?と考えてみましたが、よくわからなかったですv-39
やはりお金は有るに越したことはないけど、特に稼ぐ力もないのにそのことばかりを考えていてもちょっと疲れてしまうのに自分の欲望はなかなかどうにも押さえがきかないところがままならなくて人生を面白くしてるのか不幸にしているのか今のところ判断が付きませんでしたが、同じ不幸でも金が無い上での不幸よりは金があった上での不幸の方がまだましなのだろうかと思ったりしたことを中学生の頃に考えていたことを思い出しました。v-10
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