とあるライブにて

先日、とある山代温泉のバーでとあるトランペッターのライブがあった。ミュートやサンプラーやエフェクトを多用したもので、アシッドジャズが今でも現在形の京都でよく聴く感じのものだけれど質は全く違うもので、Nils Petter Molvaerの方法論でエレクトリックマイルスのテンションと構成美を奏でているように感じた。1曲目がジョー・ザヴィヌルの曲だから余計にそう感じたのかもしれない。でも音色はECMだ。Nils Petter Molvaerが20世紀に発表した、トランペッターがサンプラーとエフェクターを駆使したアルバム“Solid ether”は今でも聴く。その後2001年に台場で体験したニルス・ペッター・モルヴェルのライブは異空間に投げ飛ばされたような凄まじいもの(100分以上ぶっ続け)だった。
私はそのトランペッターの音を生で経験したことがあった。2000年の夏、音が悪いことで有名なブルーノート東京。私が日本人ジャズミュージシャンでいちばん好きな人の、久しぶりのライブだった。その中のトランペットが彼だった。ライブは二部制で、一部の出だしは延々と続くイントロが終わると、トランペットが入ってくる。つまり彼。その瞬間が鮮烈だった。空気が変わった。ほっとしたというのが正しい。入れ替え制だったけれど私は両方観た。緊張感があり、完璧に構築された音楽だった。今でも、私が日本で体験したライブでいちばんだ。

そのときのライブは5.1chSACDでリリースされている。SACD黎明期、マルチチャンネルで録音してエンジニアリングを施すことの有効性を知らせ、広めていったのは小野誠彦氏だ。せいげんさんは耳が良く、エンジニアでもあり、スタジオを持ち、エヴァンスやマイルスのCDをリマスターする。官能的な音楽は官能的なまま、ピースフルな音楽はピースフルなままパッケージングできる、そっちの方面でも世界的に稀有な天才だ。6300円(現在はリイシューされて3000円)というジャズのCDなら6枚購入できる馬鹿高い価格に溜息をもらしながらも、私は購入した。部屋のあかりを消して、5.1chSACDプレーヤーにセットし、椅子に座り、playスイッチを押す。自分を囲む5本のスピーカーから音が聞こえはじめる。長い長いイントロのあと、トランペットの音色が水に落とされた絵の具のように広がる。そこで私は部屋のあかりをつける。それはいつしかそのライブアルバムにおける儀式のようになっていった。

先日のとあるジャズバーでのライブが終わったとき、私はそのブルーノートのライブ盤をトランペッターに渡した。要はサインしてほしいということである。これは大変失礼なことだ。本人名義のリーダー作を出している人なら、そのCDでないと。マイルス・デイヴィスにスクリッティ・ポリッティのCDを差し出すようなものだ。しかし私にとって日本でいちばんのライブだったのだから仕方ない。出だしのトランペットは100回以上聴いているのだ。失礼であることを断った上で、私はCDを出した(しかしその晩は失礼な人が私の他にもたくさんいて、ブンブンサテライツのCDまで持ってきている人もいた)。彼はCDを見るなり「こんなの持ってんのか」と言った。「不本意で、CDは聴いたこともない」とのことだった。

緊張感の中のぎくしゃくさ。オノ・セイゲンのライブアルバムなら「モントルー93/94」がベストだ。あの幸せに満ちて少し哀しい音楽、すべてが溶けあってひとつになった音空間は、そこには一切ない。ユーモアはピンク・フロイドのライブにおける豚の風船のような役回りとなり、他の要素もフィットしていない。そもそも、フィットしていないと感じる時点でひとつに溶けあっていない。溶けあうことはジャズの本質ではないのかもしれないけれど、ぶつかり合いながらも結局はひとつの場所を目指していることもよくある。私の中ではベストとなっている。そこに、ある価値を見いだしてしまったからだ。

自分がやりたいこととは違うことを強烈なコンダクターの下で役割として行う不本意さ。帝王マイルスでさえ“Kind of blue”は失敗作だと言った。エヴァンスの貢献度が高く、楽曲そのものまでエヴァンスに支配されているからだ。“Blue in green”などはマイルスが吹かされている。しかし皮肉にもこれがマイルスの代表作のみならずジャズの名盤として、現在でも年間10万枚以上売れ、その数は年々増加している。不本意であれば仕事を受けなければ良いだけの話だ。でもそれをやるなら、自分の役割を果たす。それが仕事であり、人からお金をもらうということだ。

メンバー間でどのようなことがあったのかは別世界の単なる観衆のひとりに過ぎない私は知らない。小野さんと話したことは何度かあるが、音楽の話はほとんどしなかった。どっちが良いというわけではなく(それを提示しなければならないとしたら、私の答えは決まっているのだけれど)、自分の世界を構築したい人(そこではアドリブすら許されず、メンバーはソロができる時間を32小節ほど与えられるだけだ)ならば、自分が構築した世界がいちばんだと思うのは自然なことだ。

なのでそれは仮に双方の意見を聞いたとしても、それぞれを一意見として受け取り、あとは私がどう判断するかである。物事すべてかくのごとし。どちらか一方が逃げやエクスキューズだった場合は、馬鹿でも判る。広がる可能性のあった場所を削って削って自分の世界を狭くしてでも守るのは、ひとりで高みを目指していった結果として孤高となったのとは、何もかもが異なる。

展開が見え見えのライブは、逆説的な言い回しとして乗りやすい。バラードのエンディングが型を捺したようにベースのアルコだった。もはや様式美ですらない。
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コメント

i様
気まぐれで申し訳ないです。
古井由吉の感想など書けるわけもなく、
ただ「思ったこと」ならどうにかこうにかという感じです。

ひさしぶり!て急に毎日www
ヨシキチの感想待ってます
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