■民藝(運動)

本来は、住まいの近くの材料を使って自分で作って自分が使うものを指した地産地消のひとつ。
暮らしている土地にある木を切って彫り、器を作る。植物を編んで籠を作る。糸を撚り、布を織る。それらはすべて、売り物ではなく自分たちが使うもの。貨幣経済とも物流とも流通とも無関係の世界。工芸とかぶる部分は一切なく、道具とかぶる部分が多い、その土地で暮らす知恵であったわけです。

ですが、ある人の提唱によりおかしなことになってしまいました。アーツ&クラフツとも関連づけられ、いろいろなものがごたまぜになっています。現在売られている民芸品は、技術的な克己を放棄した妥協の産物で、努力をさっぴいても許されるだろうという甘えで成り立っています。工芸品が醸す「素朴さ」は、また別の種類です。

ある人の単なる思いつきに過ぎない民芸の概念に異を唱えた人は、運動の黎明期に組んでいたけれど途中で見切った青山二郎くらいしかいませんでした。賛同する人ばかりという史料しか残っていないのが不思議でなりません。私がつきあっている職人や懇意にしている作家にもときどき「柳宗悦って知ってるか」と、したり顔でご高説を始めようとする人がいる始末。洗脳を解くのは面倒なので「岡倉天心と青山二郎が好きなので」と婉曲的に話をやめます。でも気づいてくれることは少ない。

盲目的に民芸運動を「すばらしい」と思っている人は、民芸運動が起こったときの時代背景を考慮してください。名前を出しちゃったからまた書きますが、晩年の柳宗悦は朝鮮に傾倒していきました。なぜでしょうか。ルネサンスがキリスト教の正統化を図った活動である(イスラム文化を排除するためであり、ルネサンスの三大発明はすべて既にイスラム以東では普及していた)のと同様に、あらゆるムーヴメントは社会と切り離して考えることはできません。

民芸が謳っている「民藝美」「用の美」は、現在売られている民芸品にはありません。そして、表に出ない地産地消の道具にもありません。そこに何かがあるとするならば「かわいい」「きれい」「素朴」といった「形容」です。芸術イコール美しいものではないことは19世紀に自然主義が台頭して証明済みですし、成り立ちがアーティフィシャルではないところから美は生まれないからです。このことについては、私はヘーゲルが宣言した近代西洋美学の考え方に深く深く共感します。柳が民芸だと定義した民芸に美があり、民芸が工芸であると考えている方は、まずヘーゲル「美学講義」とその周辺と源流を読み解き、ヘーゲル批判を行ってください。
関連記事

コメント

非公開コメント