■倫理

自分に何か欠けているものがあったとき、自分のことを不完全だと思うようにしています。

よくある手続きは、自分のことを病気だと思うこと。
もしくは「良くない状態」だと思うこと。
一見謙虚ですが、良くないことです。
自分に欠陥があることを認めず、外的要因である病に責任転嫁しているからです。
自分は何も変わらないまま、変えようとする努力をしないまま、
病気が治ると完全な人になるかのようです。
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コメント

kyokyom様
こんばんは。
自分が不完全であることを認めるのは、相当強い人でなければ無理だと思います。人間は生存本能としてそこを認めないようになっています。ちなみにスポーツ選手がテレビの取材やインタビューで「自分はまだまだです」なんて言っているのは、これとは別です。

完全な人間は、たぶんいません。

コミュニケーションや社会学では、足りない部分があるからこそ、その反対側に満ちている部分(その人の長所)があるといった言説になりますね。しかし数学で考えると、足りない部分と満ちている部分は何ら相関性がないということにもなります。足りない部分が埋められたら満ちている部分は引っ込むのか、これは私には判りません。

また、自分を欠点のない人間だと思うことも、それはそれで幸せだと思いますよ。これは逆説的に露呈することが多く、mixiの日記などで「わたしってだめだなあ」とかなんとか書いて、コメントが「そんなことないよ」とか「がんばっているのは見る人が見てるよ」とか「結果よりプロセスだよ」とか「おれはいまの○○ちゃんが好きだよ」とかいったような感じの様式美で構成されています。なぜそれをネットに書くのかといえば、かまってほしいから、そうではないと言ってほしいから、それ意外にありません。私はこの手の馴れ合いが非常に苦手です。ちゃんと言えるのが、ほんとうの友人のはずですし。

自己正当化が目的で、他人を批判することが手段だとします。なぜこの手段が世の中には多いのか。簡単だからです。自分を変えなくてもいい(=努力とか克己とかいったようなことは一切しなくて良い)し、けちをつけることはほめることよりも浅い分析で済むし、自分に正しいところがなかったとしても正当化できるからです。でも、それを聞かされる側にとっては逆効果であることが多いですね。私は同業者批判をするので身をもって感じます。

自分と違うといってもさまざまです。比較の対象になりえないものも、しばしばあります。そうではなく、客観的な分析や事実の比較をもって批判するならば、私は悪いことではないと思っています。でも人格批判は良くないですね。水掛論になると人格批判になりがちですが。

自己正当化でない自己肯定はあると思いますよ。
そして、他者批判を伴わない自己正当化もあると思いますよ。

自己否定は、あまり健康に良くない気がします。ネガティブな人やペシミストだと、存在そのものの否定になりがちですから。他人から否定されているほうがまだましです。また、他人からの評価でも「あなたは私にとっては完璧な旦那さまよ」とか「私の妻は百点満点です」とかいったのは違います。そして、他人からの評価は、バランスや調和ではないことが多いです。ある一側面しか知り得ないからです。

頭の中のイメージなので上手く説明できなくてもどかしいのですが、仮に円を完全な人間としてみると、私は六等分したバームクーヒェンのような感じです。不完全とはとらえず病気と思う人は、ほんとはきれいな円なんだけれども虫に喰われたり濡れたりしている、という感じです。

と、拝読しながら思っていたのですがどうやら解決されたようで安心しました。confusionをそのまま言葉にできるのもすばらしいことだと思いますよ。ふつうは、どんな段階でも無理矢理だか安易だかにでもまとめてしまいがちです。それと、書いているうちに自分の頭が整理された、というのをよく目にしたり聞いたりしますが、あれは嘘だと思います。

動くのはいいことだと思いますよ。思考がシンプルになって、本質に辿り着きやすくなるような気がしないでもないです。かといって、動いてばかりでもなんだか後々もったいないことになるような、ならないような。

腹をくくる必要はないと思います。腹をくくらなくてもいいというわけではなく、腹は無関係な感じがします。腹をくくって臨むのではなく、なんだかんだあって腹をくくらなくてはならない結果にもなりうる、という感じでもあります。

何を言ってるのかさっぱりわからなくなりましたが、そんな感じです。

ご存じかもしれませんが、金子みすゞの有名な詩の一節を。

みんなちがって みんないい

と、凡庸な締めで終わりたいと思います。

kotaさん、こんにちは!
kotaさんの書かれた事を拝見してハッとしました。。
不完全な自分だという自覚を・・・僕は持てていなかったです。そしてなんかごちゃごちゃ考えてみたのですが、その結果として不完全である自分というものを見出せなくてがっくりきてしまいました。なぜだろう?と考えてみました。もちろん冷静に考えてみれば自分が不完全であることは間違いないのに、そして完全とは(多分)思っていないはずなのに心からそう思えないことが不思議でしょうがなく、でもやはり自分が不完全であるということをうまく飲み込めない。
ひょっとしたら不完全であるということは、欠けた部分を持つと共に満ちている部分、自分はこれによって世に立ち向かっていけると思う部分というのもあるのではないかと思い至りました。僕は全否定をするか、それともわけのわからない万能感的な感覚に捕らえられるかという極端をいったりきたり、でも基本は自己否定がやや強いという感じです。
そして振り返ってみたのですが、人は自己を正当化するために自分以外の他人や社会を否定する感情を抱くことが多々あるようです。でもそんなものは、結局何も生み出さないし、己を愚痴にまみれさせるだけか、あるいは他者に対する恨みつらみをつのらせるかだけで自分を腐らせるのでしかないと思っていました。そしてそれはかなり正しい考えと思えます。
だから他人を否定するよりまず自分を否定しないといけないと思ってみました。が、どうもこれもうまくいかないようです。
自己正当化でない自己肯定というものがあるのだろうか?
そんな疑問にとらわれています。でもこういうときはごちゃごちゃ考えるよりも動いた方がいいのですね、きっと。
あれ?これって解決ですか?
すみません、書いているうちにこんなことになってしまいました。
どうかお許しください。多分僕に足りなかったのは腹をくくるということだったのでしょうか。
とにかくkotaさんの書かれたことに共鳴して色々考えてみることができました。そういう筋合いはないのかもしれませんが御礼申し上げます。ありがとうございました^^






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