■没意味化

1

仕事を続けていくと「義務感」のようなものが醸成されていく。
どんな職業でも。
世間一般では、立派なこととなっている。
最初は、仕事をする人たちの目的意識のようなものだ。
そして徐々に秩序は合理化されていく。そりゃそうだ。
で、次第に仕事をする人たちは最初の目的意識をなくす。
ただ慣習的に秩序に従って職業行為を繰り返していく。
目的があったはずなのに、秩序だけがルールとして残るわけだ。

このパラドクスから逃れることは難しい。
業界や会社のルールを身につけていくことが一人前であると思われている。
しかしそれは形骸化した慣習に過ぎない。空っぽだ。

しばしば私は「漆器はそういうもんじゃねえよ」と言われる。
なので私は尋ねる。「何でですか?」と。
返答は、たいていこうだ。

「そうじゃないからそうじゃないんだよ」
内田百?かよ。っていうか子どもみたい。

これが私の身近にある没意味化である。


2(価値判断排除:Wertfreiheit)

※「価値」という言葉が出てきます。
 経済学的意味ではなく社会学的意味で用います。だいたいこんな意味です。

人間の欲求を基礎においたもの。神秘的なものでも超自然的なものでもない。欲求とは道徳や芸術や宗教や社会などあらゆる形態において“望ましい”とされる傾向のこと。そんな人々の欲求を満たす客体の性能が価値。そして、単体では存在しえず、つねに主体の欲求と相関関係にある。豚に真珠というのが端的に示す通り、人間がいなかったら真珠に今の価値はない。つまり真珠自体に価値はない。でありながら、価値は主体になく、客体にある。おまけに客体自体が価値ではなく、客体の属性。「真珠が価値」なのではなく「真珠には価値がある」ということ。


価値判断は、主に3つに分けられる。

・主観や価値から離れ、排除する。
・権力を持つ価値に身を置き、束縛から逃れて客観的になる。
・主観や価値を持っているけれど、それにとらわれない客観性の確保。

実際問題として、漆器づくりにおいて最初の立場をとることは不可能だ。
IT産業や工業製品など科学技術によって成立する職業でないと困難。
ふたつめの立場は、価値にとらわれてしまい何だかんだで客観性は持ちにくい。
最後の立場は、価値から自由になっている。

かつては価値判断排除と訳語が充てられていた。
今では価値自由のほうが適切で主流になっている。


3(物象化:Versachlichung)

「このお椀は値打ちがある」
「このお金は物を買う力がある」
とかいうのは経済社会では約束事のようなもの。

これは、人と人との関係が、物象のように現れていることになる。
「関係」が対象物の属性であるかのように錯誤しているわけだ。
偶発的なものではなく、必然的に起こる。

この自明なことを自覚しているか否かで、購買行動は大きく変わってくる。
個々の主体が選び取っているなのに行為は同じという集列態などは典型的なものだ。


私たちは重層的な物象化の網目の中で生きている。規則正しく文様がプリントされたビニール素材のバッグに20万円の価値があるか、ないか。「ない」ということになったら、誰も購入しないだろう。ヴュイットン(直接批判していると思われるのも何なので本来に近い発音でカナ表記します)を持つことは批判されやすい。しかし、批判している人が何を持っているかといえばコーチだったりエルメスだったりする。同じ網目の狢である。一方で、ハンドクラフトのレザーを愛用する層も存在する。ブランドで選ぶ層とは判断基準が異なる。しかし、層の中では同じなのだ。その革がほんとうに良い革か、その縫製はほんとうに卓越した技術なのか、そうしたことを検証することなく、手作りであることに意味を置く。「価値がある」というのは、そういうことではない。

西洋独特のものとして合理性に着目したヴェーバー。合理性を追求していくのではなく、合理性そのものを探求したという点において興味深い西洋人。まあ、そんなこんなヴェーバーの概念も、マルクスの登場によって吹っ飛んでしまったわけですが。


※ここで言う義務感は、倫理観や責任感とは、まるっきり違います。

参考資料
ヴェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」岩波文庫
ヴェーバー「社会科学の方法」講談社学術文庫
サルトル「サルトル全集 26巻 弁証法的理性批判」人文書院
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