■ペーソス

哀愁。芸術評論で使い古された言葉。
大切な人やものを失ったときに起こるのは“sorrow”や“sad”です。
sorrowやsadは失うことでもたらされる感情で、失ったときは社会との関わりを減らしたり全廃したりして閉鎖的になりがち。自ら孤独になります。失恋したときや会社をくびになったときに何もやる気が出ない、といった感じです。どんなにどうでもいい存在だとしても、誰か/何かを失えばバランスが崩れます。大切であればあるほど空いた穴は大きいです。失えば、反対側に傾きます。

pathosは、ものから感じる哀愁。失うという行為/関係からではなく、もの自体に宿っているわけです(作り手が埋め込んだものです。自然界のものに感じるのは、また別の感情)。自分の社会生活に(あってもなくても)大して影響のない「もの」からあふれ出ていたりにじみ出ていたりするものを「察知」するという手続きが必要です。世界の広さを思い知らされ、そこから自分の存在をちっぽけなものだと捉え、究極的には孤独だと考えてしまいます。

どちらも孤独を感じることになります。
「かなしみ」ですから。

ただし、ペーソスは「もの」に宿っているものなので、受け手が自ら望んだ孤独ではありません。そのために、人との関係を希求します。自分が持ち合わせていない類の「孤独」を心に刻み込まれ、それゆえに実生活で関係を求め合うわけです。「ペーソスあふれる詩」は合っています。でも「ペーソスあふれる人物」という表現は、頭が少しくらくらしてきます。「しょぼくれたおっさん」とか「孤独感たっぷりの人」でいいと思います。

「これは(まるで)小宇宙(のよう)だ」という形容がなされるものが、たまにあります。茶道具などで褒め言葉として多用されるシチュエーションもあります。ペーソスを感じているけれど、それを哀しみとは捉えずに楽観的な解釈をしている、という場合が見られます。また、これはペーソスとは異なるのですが、単体で空間が成立したしまうような「強い」「完成された」ものは、そこへ自分が介入することをためらってしまいます。関係を拒絶されているという意味で孤独になるわけです。これは人間関係でもありますね。「私の居場所がない」とか「あなたはひとりで生きていけそう」とかいった言葉で関係上に現れます。

相手はここにいるのに、相手のことを知りたくなればなるほど孤独を感じる、というのはペーソスでもサッドでもありません。ただの恋です。

同じ“pathos”でも「パトス」と読むとまるで違う意味になります。
ペーソスは英語、パトスはギリシア語。
受け身であることは変わりません。
対となる言葉が「ユーモア」と「エトス、ロゴス」に変わります。
パトスはパッションの語源、エトスはモラルの語源です。
パッションは情熱ですが、受難もパッションです。
受動態“passive voice”なわけです。

西洋美学なので、日本語にするのが難しい。
日本語がないということは、日本人はこれらの情動を持ちにくい。
なのでペーソスも、違った意味で使われている。

私の手がけた器から孤独を感じたら、それはそれで間違いではありません。器はどれも、ひとりで、しんとしています。それに耐えられない方は、他の、ちょっとくだけた感じの親しみやすい器を選びます(もちろん、親しみやすさを込めたデザインの器も作っています)。場を明るくしたり、雰囲気を引き締めたり、カジュアルにしたり、日々の暮らしをやわらかくほっこりとした空気にしたり、コミュニケーションを円滑にしたり。目的や機能とは異なる位相で器が「もたらすもの」はさまざまです。しかし、孤独を感じるものに触れる、というのは人間が誕生してから逃れることのできない根本的な誘惑のひとつです。自然は、すべてが密接に関わり合って成り立っています。何ひとつとして孤立していません。人間は自然を切り刻んできました。人間の手によって自然から切り離されたものに孤独の要素があるのは致し方のないことです。そして、そういうものに魅力を感じるのは、孤独な人間ではないからなのです。

その「もの」によって自分と他人のコミュニケーションが成立するのは、その先の話です。お客と作り手、生活者同士、あらゆる組み合わせにおいて。残念ながら、そこから先は「情報」がものをいいます。やりとりが簡単ですし、実物がなくても情報だけで発信や交易は可能ですから。今では情報が先行していて、情報をスペックのように組み合わせて作っている人が「優れたクリエイター」としてメディアを彩っています。メディアが情報しか取り扱わないから当然のことなのでしょう。実物に触れたときの感情をそのまま言葉にできるメディアの中の人が登場すれば読み応えがあって「消費」ではないので購読するのになあ、と思ってはいます。でも現実は「ひなびた」ものか「凛とした」ものか「新しい」ものしかありません。というかそういう形容詞しか持ち合わせていません。「ストーリーのあるものが選ばれる」とかいうのは10年以上も前から言われていることで、結局どんなストーリーなのかといえば情報に過ぎなかったりします。理論を積み重ねているようでいて没論理。中に誰もいませんよ、っていう状態です。

今回も話が逸れてしまいました。

参考資料:
「社会学事典」弘文堂
関連記事

コメント

非公開コメント