ききちょこ



「キキチョコ」と聞くと、どこ産のカカオかって話になるのですが、加賀市では日本酒の飲み比べ。京都出身のフォトグラファーもしくはカメラマンのK氏が加賀で暮らすようになって加賀のお酒の美味しさを知って主催している。のだろう。いろいろ飲める機会なので、せっかくだから器を持っていった。みっつの蔵元が料理に合わせてお酒を繰り出す。何種類飲んだのか判らない。お酒は漆だなあと、自画自賛を省いても思う。そんなイベント的なものだったのでカメラを出して撮影しました。

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コメント

思いついたのは

きんつば
一元屋 千.麹町1-6-6  03-3261-9127
(きんつばとぎゅうひ入り/無しの最中だけの店)

アイス
ジェラテリア テオブロマ 新.神楽坂6-8
(テオブロマのジェラート専門店。果物系が美味)

アイス
パティスリーパリセヴェイユ 目.自由が丘2-14-5
(TITLEにも載っていたはずです)

チョコ
オリオール・バラゲ 港.白金台4-9-18
もう話題にならないけど世界でいちばん好きなレストランのデザート担当が独立して出したお店。オリーブオイル味のチョコが有名で、やっぱりおいしい。でも最近ちょっと日本市場から撤退気味でお店の様子が変わり、スペインのショコラティエも帰国しちゃっています。奇を衒うのも、ここまでやるとすがすがしい、という感じのチョコです。

夏なのでアイスが先に思い浮かびました。オーボンヴュータンは焼き菓子が圧倒的にすばらしいですが、アイスも美味しいですよ。

一元屋のきんつばは雑誌のスイーツ特集だか何だか知りませんがそんなものには絶対載らないし老舗でもないので田舎者は知りません。でも超おいしいです。きんつばも、ちゃんと作ればこうなるのかと感動します。

マルコリーニは是非銀座店へ。アイスとチョコの両方をはしごしたくなります。夏ならチョコレートパフェかなあ。濃いですよ。

i様
初めに言葉があったのか、それとも人間が最初なのかは、どこから「人間」なのかということにも関わってきますね。

キリスト教全否定www

kyokyom様

私はブレまくっていますよ。いつもピンボケ、判断保留です。保留の書類が山積みになっているけれどハンコを捺すことができないようなものです。ある側面から見ると逆の考え方もあるなあとか、アプローチの方法がいろいろあるなあとか、なんだかひとりでいろんな候補を挙げて収拾つかなくなっている感じです。候補はたくさんあったほうが良いのですが、それはあくまでも最善解を導き出すために検証して潰していくもの(これはナシだなというのを確認する)なのに、私は候補をコレクションしているような気分になることがあります。また、新しいことを仕入れたとき、それを既に身につけているものと結びつけるのを意図して避けているので、ばらばらなものが頭の中にいっぱいあります。

私は人間性がないと思われることが多いみたいですよ。人間味なら何となく解るんだけど人間性というのが如何なるものかは人それぞれ概念らしきものが異なるのでいまいちよく解らなかったりするんですが。人間と他の動物との違いで見れば、秩序と言葉によってむしろ冷酷とも言える人が「人間性」にあふれている、ということになります。でも、動物全般に当てはまる本能のおもむくまま喜怒哀楽を表現して仲間を守る人に形容されるものとして使われることもあります。言葉は、がつんと何かを断定的かつ強権的に相手へ「与える」ことにもなります。このあたりはロラン・バルトがおもしろいです。しかしながら、それが果たして良いことなのかどうかは歴史を見ても良くないことのほうが多いですし、ズバリと斬ったら場が凍りつくこともあるし、日本は何となくなあなあな感じが良しとされるムードでもあります。「和」の国ですから。ネット弁慶に人間性はあるかというと、ないと思う人がほとんどでしょう。

実際の私はヌボーッとしています。真剣に考えるのなんて1日90分くらいしか持ちません。動物にたとえると、かつてはピューマとかチーターとか言われたものです。でもここ10年は、トド、アシカ、コアラ、フラミンゴ、トンビ、プーさん、モリゾー、スナフキン、とにかく散々です。kyokyomさんが何かに対して喜んだりつまんなかったりするのも人間性であるはすですし、それをそのままブログに書くのはとてもオープンというか正直なので偉いなあと思っています。それもまた強くないとできないことですから。

「思う」と「考える」は多用します。「私の場合」も使います。「~のような気がしないでもない」も使います。でも「個人的には」で始まる考え方の披露は絶対にしません。「スタンス」とかいう横文字も使いません。なので実は曖昧なんですよ。そんなに意思表明しているわけでもないですし。でも受けるイメージはそうではない。これもまた書き方のテクニックなわけです(テクニックなんて書くと「じゃあ嘘なんだ」と思う方がいらっしゃるんですよ世の中はワンダーランドです)。今日はいろいろと開陳しすぎに思うような気がしないでもないです私の場合個人的には今日の気分ではあると思います。吟じます。(←ふざけましたごめんなさい

広告の世界では、プレゼンテーションの成否は企画書の内容が一割、話し方や表情などが九割と言われています(でもこれは社会人として最低限のマナーも持っていない人が多いからそう言われているだけであって、最後の最後は企画内容の比較で選ばれると思います。ともだち探しではなく仕事ですから)。プレゼンテーションの仕方だけの書籍もたくさん出ています。企画書の書き方はテクニックなので身につければいいだけですし、私も販促会議っていう雑誌で企画書の作り方とかいうのを書いたこともあります。テクニックですからテクニックを書けばいいだけです。一方、コミュニケーションが「上手い」というのはどういうことなのか、広告の隅っこにいつつテクニック的な書籍などを読んで考えたことがあります。もちろん仕事としてはテクニックを身につければオッケーな話です。何の問題もありません(シミュレーションやリハーサルはあたりまえ、テクニックを磨くために「未開人に画鋲を売るにはどうする」とか「常夏の国の人に毛皮を売ってみてください」とかそんな色々と何か酷い気もするトレーニングまでしているんですよ。いらないと思っている人、そんなもの買おうと思ったことのない人に買わせるテクニックはいろんな分野で確立されています)。でも違和感がありました。それだけじゃないだろうっていう。で、そこから導き出されたのがインフラだったんです。

コミュニケーション手段の種類は、道路や鉄道みたいなもんです。どう使うかは、道路の歩き方や交通法規に従って利用するのと同じような感じです。目的地がある。そこへ行く道がある。何種類かルートが考えられる。道が改良されたりバイパスができることもある。歩く、走る、自転車、クルマ、タクシー。インフラの利用は、あくまでも人それぞれの技量や器のようなもので範囲というか選択肢は絞られます。同じ徒歩でも、道ばたの草花を眺めながら歩く人もいれば、雲のかたちを眺める人もいます。何も眺めずに目的地へ進む人もいます。長時間走ることができる人もいれば、徒歩も不可能な人もいます。それはマニュアルを覚えれば身につくようなテクニックではないと思うんです。そして、これが最も重要なことです。徒歩が楽しいときもあるし、疲れてつらいときもあります。決して「楽しくなろう」としてなるものではありません。

矛盾したことを書いてしまうかもしれませんが、たとえば誰かと一緒にいるとします。で、何も会話がない。それでも、ふたりの間には親密な空気が通うこともあります(ぴりぴりした空気になることもあるし居心地悪い空気になることもあります。沈黙を破るのがお互いの笑いであることもあるし、破るためだけに発される言葉だったりします。大切なのは、沈黙を回避したかったら沈黙する前にというか沈黙しないようにしなければならない、ということです。私は沈黙でも全然平気です)。コミュニケーションで交わされるのが知識や情報や昨日何してたとか今日も暑いですねとかいった話だけではなく、言語化できない感情もあるからです。一緒にいるけれど会話はない。でも繋がっている「実感」がある。そういうのを考えてみると、コミュニケーションはテクニック云々ではないということになるわけです。自己啓発的な本にも「親密な空気」や「真剣に対峙」とかいった現実における最も重要なこと(真剣に向き合っているならば、ぶっちゃけ会話の内容はどうでも良いこともあります。それは「真剣な顔をする」わけではなく、その人が真剣に向き合っているから表に出るものだと思います。その差異くらい誰だって判りま)を身につける方法などは載っていないと思います。読んだことがないので判らないですが。

東浩紀氏をはじめとして哲学(研究)者が多用する「交通」とは別です。

発信して受け取るという相互作用がコミュニケーションです。発信だけでもコミュニケーションですし(マスコミ)、発信していないものから何かを受信するのもコミュニケーションです(メッセージ性が皆無の芸術作品)。大学ではメディアコミュニケーションを扱うところがほとんどで、対人関係は心理学になっているようです。交わされるもので重要なのが情報だと考えられているような気もします。というのもコミュニケーションという言葉はもともと言語学の用語だったからです。しかし重要なのは感情だと思います。

「コミュニケーション能力」なるものは「正しく伝えること」だと思われがちです。でも、もっと大切なのは「正しく受け取ること、理解すること」です。自分の言いたいことを喋らせたら天下一品だけれど他人の話を聞かない人を「コミュニケーション能力」に当てはめて考えてみれば、能力に欠けることになります。聞き上手が人を惹きつけるのもそうだと思います。「わかってくれる」からです。それもまた身につけるつけないの問題ではないです。というのも、もしそれが身につけることのできるテクニックだとしたら、世の中の不幸がないはずだからです。一緒にいるのに心が通じ合っている感じがしない、というとき。自分が相手を好きだったら、そんなの嫌に決まっています。すぐそばにいるのにひとりぼっちな感じが増すなんてかわいそすぎです。なのでそんなのを変えたくなります。で、テクニックであれば身につけて状況を変えればいいです。そんなわけで、コミュニケーションをテクニックだと思っている人が多いからこそ恋愛マニュアルや話し方の本や「聞き上手がモテる」なんていうわけのわからない本なんかを頼りにしちゃって実践して、でもやっぱり事態は改善しなかった、ということになってしまうわけです。

話があちこちに飛んでめちゃくちゃですね。

菊姫は有名ですね。やっぱりこっちの魚介類や野菜と合います。水ですから。それにしても半年お酒を飲まなくてもいいというのはすばらしいですね。私も1か月くらい飲まなくても平気なのですが、やっぱりおいしいお酒はおいしいので好きです。おいしいものを食べたらお酒が飲みたくなったりもします。飲めるようになるなんてことは不要だと思いますよ。割り勘で損な気分になるかもしれませんが、おいしい料理を食べちゃえばいいだけです。パフェでも食べちゃえばいいと思います。ちなみにコミュニケーションを円滑にするためにお酒の席をもうける(飲ミニケーション←死語)のは嫌いです。仕事だろうが恋愛だろうが、そんなものに頼りたくはありません。と、また私の話ばかりになってしまいました。トラックバック企画も酒と本でしたね。好きだけど飲まないというか毎日欠かせないわけではないというのがちょうどいい距離感だと思いますよ。適量なら健康とか言われていますけれど、少量を毎日飲むのが依存症への最短ルートですし。

こんにちは

kotaさん、こんにちは。
前のコメントでは僕の拙い内容と文章のコメントに丁寧に返事をして下さりありがとうございました。というのはいつものことなのでそのたびにこういう挨拶をするというのもなんなので今後は割愛させて頂きます。
kotaさんご自身、二階堂奥歯に対しては冷たい印象、と書かれていましたが僕個人としては冷たいというほどには感じませんでした。kotaさんの仰り様は、ブレがなくていつもバランスが保たれているのだと思うとなぜそのようなことが出来るのか・・・不思議です。人間性の差でしょうか。
コミュニケーションの行為がインフラと聞いてちょっと驚いています。そうなると個人の努力ではそれが改善されることはないのでしょうか。というか、こういう質問の仕方こそなんだか僕のところでインフラの一部としてのパイプが詰まっているような状態にも感じてしまいます。流れのいいところと悪いところがあるようです。

石川のお酒と言うと「菊姫」しか知らないわたくしです。
酒に弱い僕でも菊姫の山廃純米酒の華やかな味にはしびれました。淡麗辛口のお酒の味はあまりよくわからないのが残念です。
というかここ半年の間一滴もアルコールを摂取していないのに、ついコメントさせて頂きたくなってきました。飲めないのにお酒の話題が好きです^^
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