書棚の中身

以前のブログで、私の書棚の画像を披露したことがあります。1000冊入るっていうから購入したのに600しか入らなくて結局それまで使っていた棚にも収納せざるを得なくなったとかなんとかいう記事でした。あれからも数量は大して変わらず、常に中身が若干入れ替わっています。

ブログでは読んだ本のうち、新刊でおもしろかったものを中心に採り上げています。ということは、私が昔から何度も愛読している本については出番がありません。このブログを参考にしてくれる方もいて非常にうれしいのですが「そういう感じだったらあれが気に入るだろうなあ」と思ったりすることもままあります。また、私の書棚を見てみたいという方や、好きな本ベスト100を選んでという方がいらっしゃいます。というわけで、何様のつもりなんだという突っ込みは置いといて、だいたい100タイトルを目安に、ひとり一作(これがまた難しい!)で選んでみました。ちなみに私は小説や詩をこれまでに多く見積もっても6000タイトル程度しか読んでいません。でも「今月のベストセラー」やライトノベルは自発的に読んだことはありません。いわゆる純文学で6000タイトルです。

まず、これだけリストアップしました。

■日本/小説・詩 20
阿部和重「公爵夫人邸の午後のパーティー」
石川淳「狂風記」
泉鏡花「歌行燈」
上田秋成「雨月物語」
大西巨人「神聖喜劇」
小栗虫太郎「黒死館殺人事件」
笠井潔「サマー・アポカリプス」
倉橋由美子「反悲劇」
小島信夫「別れる理由」
後藤明生「挟み撃ち」
庄野潤三「プールサイド小景・静物」
谷崎潤一郎「鍵」
多和田葉子「容疑者の夜行列車」
中原中也「詩集」
日夏耿之介「転身の頌」
古井由吉「仮往生伝試文」
紫式部「源氏物語」
横光利一「機械・春は馬車に乗って」
吉行淳之介「暗室」
新古今和歌集

■海外/小説・詩・戯曲 62
アーヴィン・ウェルシュ「トレインスポッティング」英
アーサー・C・クラーク「幼年期の終わり」米
アルチュール・ランボー「地獄の季節」仏
アルベルト・モラヴィア「無関心な人々」伊
アレクサンダル・ヘモン「ノーホエア・マン」ボスニア・ヘルツェゴビナ
アントニオ・タブッキ「インド夜想曲」伊
アンドレイ・ベールイ「ペテルブルグ」露
イタロ・カルヴィーノ「パロマー」伊
ヴァージニア・ウルフ「波」英
ウィリアム・バトラー・イェイツ「詩集」愛
ウィリアム・フォークナー「響きと怒り」米
ヴィンフリート・ゲオルク・ゼーバルト「アウステルリッツ」英
ウラジーミル・ナボーコフ「マーシェンカ」露
ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」伊
カーソン・マッカラーズ「心は孤独な狩人」米
カズオ・イシグロ「日の名残り」英
ガブリエーレ・ダヌンツィオ「死の勝利」伊
ガブリエラ・ガルシア=マルケス「百年の孤独」コロンビア
カリンティ・フェレンツ「エペペ」ハンガリー
クリストファー・プリースト「双生児」英
クロード・シモン「フランドルへの道」仏
ゲンリフ・サブギール「ユリイカ 1999年6月号」
サマセット・モーム「雨・赤毛」英
ジェイムズ・グラハム・バラード「残虐行為展覧会」英
ジェイムズ・ジョイス「フィネガンズ・ウェイク」愛
シャルル・ボードレール「悪の華」仏
ジュゼッペ・ウンガレッティ「詩集」伊
ジュリアン・グラック「シルトの岸辺」仏
ジョリス・カルル・ユイスマンス「さかしま」仏
ジョルジュ・バタイユ「青空」仏
ジョルジュ・ローデンバック「死都ブリュージュ」白
ジョン・ファウルズ「コレクター」英
ジョン・マックスウェル・クッツェー「夷狄を待ちながら」南ア
スタニスワフ・レム「ソラリス」波
ステファーヌ・マラルメ「骰子一擲」仏
スチュアート・デイヴィッド「ナルダが教えてくれたこと」英
ダンテ・アリギエーリ「神曲」伊
ダンディン「十王子物語」インド
ディーノ・ブッツァーティ「タタール人の砂漠」伊
トーマス・ベルンハルト「消去」墺
トマス・スターンズ・エリオット「荒地」英
トマス・ピンチョン「重力の虹」米
トルクァート・タッソ「愛神の戯れ」伊
ノヴァーリス「青い花」独
ハインリッヒ・フォン・クライスト「チリの地震」独
パウル・ツェラン「詩集」ルーマニア(現在はウクライナ)
パトリック・ジュースキント「香水」独
フアン・ルルフォ「ペドロ・パラモ」メキシコ
フィリップ・キンドレッド・ディック「高い城の男」米
フェデリコ・ガルシーア・ロルカ「ジプシー歌集」西
フリードリヒ・ヘルダーリン「詩集」独
ベルトルト・ブレヒト「屠殺場の聖ヨハンナ」独
ヘルマン・ブロッホ「夢遊の人々」墺
ボリス・ヴィアン「日々の泡」仏
マックス・エルンスト「百頭女」仏
マルセル・プルースト「失われた時を求めて」仏
ミシェル・ウエルベック「素粒子」仏
ミシェル・トゥルニエ「魔王」仏
ミシェル・ビュトール「心変わり」仏
ミラン・クンデラ「不滅」チェコ
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ「ファウスト」独
ルイ=フェルディナン・セリーヌ「北」仏
レーモン・クノー「文体練習」仏
ロベルト・ムージル「特性のない男」墺

■日本/哲学・思想 4
鈴木大拙「禅と日本文化」
九鬼周三「「いき」の構造」
世阿弥元清「風姿花伝」
西田幾多郎「善の研究」

■海外/哲学・思想 12
アンリ・ベルクソン「時間と自由」
イマヌエル・カント「純粋理性批判」
エトムント・フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」
ジャック・デリダ「エクリチュールと差異」
フェルディナン・ド・ソシュール「一般言語学講義」
マルティン・ハイデッガー「存在と時間」
ミシェル・フーコー「言葉と物」
モーリス・ブランショ「文学空間」
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」
ロラン・バルト「恋愛のディスクール」
「サンヒター」(「リグ・ヴェーダ賛歌」)
「無門関」

■随筆・エッセイ・その他の散文 20
青山二郎「鎌倉文士骨董奇譚」
幸田文「崩れ」
須賀敦子「ミラノ 霧の風景」
立川直樹・森永博志「クラブ シャングリラの予言」
中江兆民「三酔人経綸問答」
埴谷雄高「不合理ゆえに吾信ず」
土方巽「病める舞姫」
南方熊楠「十二支考」
本居宣長「玉勝間」
山本夏彦「私の岩波物語」
アントナン・アルトー「ヴァン・ゴッホ」
ヴァルター・ベンヤミン「パサージュ論」
エドワード・サイード「オリエンタリズム」
クロード・レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」
サム・シェパード「モーテル・クロニクルズ」
ジョージ・オーウェル「カタロニア賛歌」
ジョン・ケージ「小鳥たちのために」
岡倉天心「茶の本」(原典は英文、講談社学術文庫に併録)
フェデリコ・カルパッチョ「フェデリコ・カルパッチョの極上の憂鬱」
マルクス・アウレーシス「自省録」

合計117タイトル。小説と詩と戯曲は、フランス15、イタリア、イギリス9、ドイツ6、アメリカ5、オーストリア3、アイルランド、ロシア2、ベルギー、スペイン、チェコ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ポーランド、ルーマニア(ウクライナ)、南アフリカ、インド、メキシコ、コロンビア、ハンガリー各1、思ったよりもイギリスが多かった。

で、このリストから、名作とベストセラーを、ばっさりと切り捨てます。誰もが挙げるものが入っていても、ありきたりのリストです。「私の好きなレコード」で、フルトヴェングラーのバイロイト第九や、カインド・オブ・ブルーやペットサウンズを挙げてもつまらないのと一緒。もちろん、削除したもののほうが「好きさ」の強いものもあります。

すると、こうなります。


■日本/小説・詩 9
笠井潔「サマー・アポカリプス」(Google検索結果609件)
倉橋由美子「反悲劇」(Google検索結果864件)
小島信夫「別れる理由」(Google検索結果1390件)
後藤明生「挟み撃ち」(Google検索結果1630件)
庄野潤三「プールサイド小景・静物」(Google検索結果640件)
多和田葉子「容疑者の夜行列車」(Google検索結果568件)
日夏耿之介「転身の頌」(Google検索結果339件)
古井由吉「仮往生伝試文」(Google検索結果1750件)
横光利一「日輪・春は馬車に乗って」(Google検索結果906件)

■海外/小説・詩 20
アレクサンダル・ヘモン「ノーホエア・マン」ボスニア・ヘルツェゴビナ
アントニオ・タブッキ「インド夜想曲」
アンドレイ・ベールイ「ペテルブルグ」
イタロ・カルヴィーノ「パロマー」
ウラジーミル・ナボーコフ「マーシェンカ」
カーソン・マッカラーズ「心は孤独な狩人」
カリンティ・フェレンツ「エペペ」ハンガリー
クリストファー・プリースト「双生児」
ジュリアン・グラック「シルトの岸辺」
ジョリス・カルル・ユイスマンス「さかしま」
ジョルジュ・バタイユ「青空」
スチュアート・デイヴィッド「ナルダが教えてくれたこと」
トーマス・ベルンハルト「消去」
ハインリッヒ・フォン・クライスト「チリの地震」
フェデリコ・ガルシーア・ロルカ「ジプシー歌集」西
フリードリヒ・ヘルダーリン「詩集」
ヘルマン・ブロッホ「夢遊の人々」
マックス・エルンスト「百頭女」
ミシェル・ビュトール「心変わり」
ルイ=フェルディナン・セリーヌ 「北」

■日本/哲学・思想 1
九鬼周三「「いき」の構造」

■海外/哲学・思想 5
アンリ・ベルクソン「時間と自由」
エトムント・フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」
ロラン・バルト「恋愛のディスクール」
「リグ・ヴェーダ」
「無門関」

■随筆・エッセイ・その他の散文 6
青山二郎 「鎌倉文士骨董奇譚」
立川直樹・森永博志「クラブ シャングリラの予言」
中江兆民「三酔人経綸問答」
南方熊楠「十二支考」
フェデリコ・カルパッチョ 「フェデリコ・カルパッチョの極上の憂鬱」

となります。41タイトル。なんだか変だな、減らし過ぎだし。でもこれが私です。

小説・詩は、フランス6、イタリア、オーストリア、ドイツ、イギリス、ロシア2、ベルギー、スペイン、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ハンガリー、アメリカ1、になりました。

favoritebook



リストを見て「男っぽいなあ」と感じた方は、かなりの読書家です。明らかに男性的な嗜好が露呈しています。人間を女性と男性で分けるのは短絡的であることを踏まえつつ、そう思います。日本の小説については、西洋かぶれのものは好きではありません。外国語への翻訳が難しい、日本語の特質を活かしたすばらしい言語空間を創出したものが好きです。なんといっても「文芸」なのですから。

好きな小説家・詩人は、泉鏡花、横光利一、小島信夫、古井由吉、倉橋由美子。海外はナボーコフ、ヴィアン、ボードレール、タブッキ、そしてセリーヌ。哲学はロラン・バルトとヴィトゲンシュタイン。この人たちの邦訳は、ほぼすべて持っています。これまでに最も読み返した回数が多いのは「北」か「風姿花伝」で、哲学書は論理哲学論考、エッセイはクラブシャングリラかフェデリコ・カルパッチョです。

未完成の小説は好きではありません。実物が存在しなくても成立する“時間芸術”である文芸と音楽は、未完成であっても筆がとまった箇所までは一応できあがりのため鑑賞には支障がなく、そのままで出版されたり演奏されたりしています。でもやっぱり私には未完成なのです。というわけで、未完に終わったものはひとつしか挙げていません。

歳をとってからゆっくりと本に向かう、という夢想は誰でも描きがちです。しかし私は、そうは思いません。むしろ反対。読書はスポーツと似ています。若いときは感覚で身につきますが、大人になると頭から入ってしまいます。そしてトレーニングが必要です。文学的技巧皆無の歴史小説や実用書を読んで「本を読んだ」と感じるのは間違いではありませんが、なんだかもったいないです。

「赤と黒」「魔の山」「人間の絆」「カラマーゾフの兄弟」「戦争と平和」「デイヴィッド・コパフィールド」といった定番は、40歳を過ぎても寝食忘れて土日で読むことができるでしょう。しかし、上に挙げた「別れる理由」「神聖喜劇」「薔薇の名前」「重力の虹」「北」「特性のない男」といった大作は、歳をとると間違いなく脳が拒絶反応を起こします。短くても難解な「仮往生伝試文」「フランドルへの道」「波」「心変わり」なども苦痛。詩は何だかさっぱり解らない。古典は文法と単語を忘れてしまってちんぷんかんぷん。哲学書になると最早文字を追うだけで苦痛。

たった一度の人生、すばらしい文芸作品を味わうことなく死んでいくなんて非常にもったいない話です。私なぞ、読みたい本を死ぬまでに読み切れるかどうか不安なくらいです。絵画も彫刻も音楽も然り。シュターツカペレ・ドレスデンの音は現地でなければ味わえないし、カスパル・ダーヴィッド・フリードリヒの絵は厳寒のドイツでこそ鑑賞できると言えますし、エルブリが美味しいかどうかは実際に食べてみないと体験できません。井上陽水の歌に「人生が二度あれば」という悲しい歌があります。私は人生が二度あれば、読了直後に壁に向かって投げ捨てた本は読まず、質の高いものだけを何度も手にしたいと思います。蛇の背中をピアスで蹴りたいというか、池袋ウエストゲートパークの恋空の中心で国家の品格を叫ぶ見た目が9割のバカの壁をゲーム脳にクオリアしたらチーズは冷静と情熱の間のノルウエイの森へ行った日が他人を見下す頭のいいさおだけ屋の限りなく透明に近い7つの習慣Web2.0記念日です。一度でも読んでおけば、歳とってからでも繰り返し作業に過ぎないのでだいじょうぶです。おまけに良質な文芸作品は繰り返しに耐え、必ず再発見があります。

上記はあくまで私のフェイバリット。三島川端太宰中上、ドストエフスキーやスタンダールも入っていません。それどころかサマセット・モームの「世界の十大小説」がひとつも入っておらず、同じくモームによる「これを読まなければ現代人として遅れている十の小説」からはひとつしか入っていません。最初は「東大教官がすすめる本ベスト100」とか「京都大学文学部新入生向け 西洋文学この百冊」とかノーベル研究所が発表した史上最高の文学100などを参考にすると良いでしょう。ナボーコフの大学講義をまとめた「ヨーロッパ文学講義」秀逸なのだけれど絶版のため5000円以下では見あたりません。または映画「華氏451」で焚書のシークエンスに目を凝らすのも一興です。そうして定番をひととおり読んでみて、自分の好きな方向へ行けばいいだけです。という手続きは、やっぱり十代に済ませておいたほうが時間もあるし面倒でないことにお気づきになると思います。

最初に晦渋なものを読むのは、いきなり150万円くらいかけた自転車でツール・ド・フランスに出場するようなものです。それで字面を追うだけでもつらくなって、結果「何だか解らない」なら良いのですが「つまらない」と烙印を捺すのは間違いす。文学理論を身につけていないと、何が良いのか、どうすごいのかが解らずもったいないです。おすすめは基本中の基本、テリー・イーグルトン「文学とは何か」です。理解できなければ大橋先生の「新文学入門-T.イーグルトン『文学とは何か』を読む」を併読してください。めんどくさそうだなと思ったら、ジョナサン・カラー「文学理論」でもいいですが、明らかな誤訳があるので真っ新な状態で読むのはまずい気もしなくもないです。

もちろん、トレーニング不要、理論を持たずとも楽しめる読書もあります。それがいわゆる定番や名作の類で、間口が広い=大衆的なものです。これは昔からそうだと思います。私の中では、スタンダールやモームは、ナボーコフやセリーヌよりも乙一や伊坂幸太郎に近いです。作中人物を好きになったり嫌いになったり、場合によっては感情移入までしてはらはらどきどき、一体最後はどうなるのかストーリーを追っていく。もちろんそれは悪くもないし低レベルでもありません。しかし、それとは全く異なる読書の世界があります。その世界を知るには「ヨーロッパ文学講義」を読むのがいちばん簡単なのですが前述の通り絶版で、なんとももどかしいです。他方、教養主義的な読書や、お勉強のための読書は、おもしろくありません。私が「文学」という言葉を多用せず「文芸」という言葉を使っているのは、そんな意図です。150冊くらい本気出せば1年で読めます。

「時間がない」と言う人は、時間があっても読みません。

時間の流れは、歳をとればとるほど加速する。
これは、ジャネーの法則として知られています。

子どもの頃、カップラーメンの3分、ポップソングの3分が、とても長く感じた。放課後から晩ご飯までの3時間ほどで、たくさん遊べた記憶があります。私の今くらいの年齢になると、お茶を飲みながら窓の外を眺めて「金木犀の匂いって、ちょっと強すぎるんじゃないかな、ここまでいくと下品だよ」なあんて思っているうちに3時間ですよ。

関連記事

コメント

i様
映画はアウェー感が強いです。
そのぶん私のべたな部分や私的な部分が抉り出されるかもしれません。
とはいうものの100本選ぶのは至難の業です。
ちょっと検討してみますね。

おつかれさまです!
映画100本もお願いします!

kyokyom様

前回書いた定義だか概念だかとは別に、私としては芸術を「新しい世界の創出」と捉えています。つまり、新しい世界を見せてくれるわけではないもの=程度の高いものは、あくまでも従来の世界を飛び出していない「高品質なもの」に過ぎないわけです。そして、それはそれで悪いわけではないとも考えています。

さて、新たな疑問について。これもまた「小説って何?」とか「優れた小説とは?」というのと密接な話ですね。早稲田の一文(今はそんな言い方しないのだろうか)を出ているM○○○. Cさんが適確な説明をされているでしょうから私は私が思っていることをいつものようにぐだぐだ書きます。「重視」というのが「好き嫌い」なのか「良し悪し」なのか判りかねますが、前者ですよね。後者ならひとりひとりに質問しなくてもいいですし。

どっちも好きです。

それだけではなく「構造」も重視しますし「書かれていること」も重視します。構造は文体と異なります。書かれていることは、物語と異なります。書かれていることとは「要は何が言いたいのか」ってのと似ています。中学校の国語のテストみたいなもんですね。ちなみに私、かつて「作者の意図は何か」という設問に「印税生活を送りたいという目的が最初にあったからこそこんなひどい代物を世に出そうと考えた。もしくは、無知蒙昧でも恥を知らなければ何でもできることを身をもって伝えようとした」と書いて、あとで教師に呼ばれました。今に思えば日教組が喜びそうな答えですし、今の私は当時より少しだけ世の中に対して寛大になっているような気がしないでもないです。話を戻すと、書かれていることとは、文芸のみならず全ての芸術において不可欠です。ふつうは逆に思われていますが。

たとえば、今どこにそんなブームがあるのか田舎ではさっぱり判らないけれど田舎の書店にまで漫画版も売られている蟹工船。蟹工船は、文体よりも物語よりも構造よりも、書かれていることが重要だと思います。たぶん、舞台を河川改修工事現場や北海道開拓に差し替えても、同じになるだろうからです。逆に言うと、テレビドラマで木村君がレーサーになったりパイロットになったり総理大臣になったりしても、私にとってはすべて「木村君ってかっこいいね」なのです。このことは、みんな薄々気づいていると思うんです。

昔から「誰でも小説をひとつ書くことができる」と言われています。それはなぜか。誰の心の中にも「それまででいちばん心に残ったこと」があるからです。当然、いちばんだからこそ書く気になるわけです。二番目のことや「日常の何でもない風景」を書く人は、最初から逃げています。いちばんの中身は失恋であったりスポーツのことだったり冒険だったりいろいろです。話は逸れますが、恋愛においては失恋した場合を書きたくなり、恋愛以外のすべてのことは成功体験を書きたがる生き物のようです人間って。話を戻すと、それを書き上げると、満足する人と、俺は小説家になれるんじゃないかと勘違いする人に分かれます。お気づきの通り、小説家として生きていくことはできません。文学賞の新人賞に応募してくる小説の半分以上は、こういったものです。書かれていることの話おしまい。

文体というと翻訳の問題が付きまといます(付きまとうのは文体だけではないのだけれど)。翻訳で読む海外小説は「日本文学」でもあると思ったりすることがあります。私はセリーヌ好きを公言しています。セリーヌもまた、厳密には翻訳不可能です。だからこそ、一生付き合う価値があるとも言えます。そこを追求していくことは小説を読む喜びのひとつです。もし小説が、小説ならではの文体を放棄し、どれもが時代小説のように日本的な芸も失われた下品な文章で綴られて田舎の経営者が登場人物の誰かをベンチマークにするようなものに堕落(=大衆化)したら、おそらく私は映画か舞踏がいちばん好きな表現手段になるでしょう。

「小説ならではの文体」を説明するのは難しいです。上の本記事中に「秀逸」でリンクを貼っているページのように、いろんな文章の一部を抜き出して、これは小説、これは小説ではない、とやるのは文芸理論を学ぶときの入口で、とても懐かしかったのでリンクしました。

「文体を重視」と一言でいっても、大衆的な読み物にも文体はあります。文学的ステレオタイプを数珠繋ぎしているようにしか思えない某小説家は「骨太の文体」と言われていて人気があります。恋空や乙一にも文体はあります。読みやすい小説も、読みやすい文体だからこそ大衆から支持を獲得するわけです。日本語として破綻していても、そのことに気づく人が少なくなってきているからいいんです。今は、オチがないだけでクレーム殺到な時代です。サービス精神が豊富な書き手ほどビジネスとしては成功します。それは本人がそういう文体でしか書けないのか、それともいろんな文体で書けるのだけれども戦略的に読みやすい文体を選んでいるのか、一体どっちなのかは無関係です。

文体がなくても小説は成立します。では、物語がなかったら小説は成立するか。します。でも、そんなものを誰が読むでしょうか。良く言って前衛的、要は自己満足。一時期の筒井康隆のようなものです。極端に物語性を排除したクノー「文体練習」くらいやってくれれば私の場合とてもうれしいです。でも、えてして読むに耐えないものばかり。現代アートを「芸術だ」と言うのと同じような感じですね。

というわけで、バランスです。
そして「自分がどっちを好きなのか」でいいと思います。
世間では文体重視のほうが高級で、
物語重視は大衆的だという風潮があります。
日本は、独自の「語り」の醍醐味を文明開化と共に捨て去りました。

読書は楽しいものです。
それが悩みの種になってしまっては本末転倒、
ましてや「勉強」になるなんておかしいです。
(だから「文学」って言葉は嫌いだ、という論法は女性的ですかね)
生きていく上で文芸作品は必要か。
不要です。
音楽も映画も彫刻も絵画も演劇も舞踏も写真も不要です。
それなのになぜ読むか。
私は、楽しいからです。
小説を読むことでしか味わえない喜びがあるからです。
真剣勝負の楽しさを知ってしまったら、
中身のない娯楽など時間つぶしにもなりません。

日本近代「文学」(←西洋概念の翻訳語)のスタートとされる坪内逍遙「小説神髄」では「小説の主脳は人情なり、世態風俗はこれに次ぐ」と書かれています。宿命的なまでに世俗的な読み物なんです、日本では。

こんにちは

わたくしのロクにものを考えていないで放り出してしまった疑問に丁寧に答えて下さりありがとうございました。というかそんな開き直りの態度で申し訳ありませんでした。。
半分も理解できたとは言いがたいですが、たいへん面白く読ませ頂けました。
僕はどうしても程度の高低から逃れられなくて、kotaさんが書いて下さったものを読んで、なるほど!明快だ、と思ったにも関わらず、それでも程度の高低を人に伝える方法はないのだろうかと考えてしまい自分でもちょっとうんざりしてきています。多分今すべきことは考えることではなくて、学ぶことなんだろうなあと思いつつも。。
とにかくkotaさんが示して下さったことで、これまた曖昧な言い方ですが、自分の考えようとしていることのある部分は少しは何かが掴み取れそうな予感を抱けました。
そのためにはやはりまずはとにかく先人の知を学ぼうとしなければいけないのかなと思っています。

あ、ところでkotaさんは小説を読むときに、物語や作者の思想とそして文体とではどちらを重視なさいますか?
overQさんやMlleCさんやみかさんや典さんというお友達方に文体について聞いて回ってとうとうkotaさんの下にやってまいりました。自分で考えろ!と自分に向かって言い聞かせていてもどうしてもお友達の方々が文体についてどのように考えているのかも知りたい衝動が止みません。
それぞれにたいへん刺激に満ちた回答を頂けてとても楽しかったのですが、まだ自分なりの考えは固まっていません。
でも、文体にこだわりすぎると、じゃあ翻訳で読んだカラマーゾフで感動した自分のあの経験は、ロシア語圏の人間には追いつけないのか?と思ってしまうとちょっと納得がいきません。
と、お礼に参りつつまた半端な疑問を書いてしまって申し訳ありません。
もし気が向いたら疑問にお答え頂ければと思いますが、基本的に返事のコメントは気になさらないで下さいまし。
では、失礼しました。そしてありがとうございました。



kyokyom様、おはようございます。

いまのところ私は「小説はぜんぶ芸術」ということにしています。99.9パーセント商品だとしても、やっぱり芸術作品です。裏を返せば、ぜんぶ芸術ではない、とも言える気がします。

私は、何が芸術か否かについて、一般的な線引きよりも遙かに厳しい区分をしています。芸術家とか作家とかアーティストという言葉も、よほどのことがない限り使いません。仕事上「作家」という「職種」の方とは接してはおりますが。音楽家はミュージシャンですし、小説家や詩人は小説家であり詩人、陶芸家は陶芸家です。逸れた話を戻すと「一般的な線引き」とは「程度の高低」であり、私の線引きは、ジャンルによる分類です。

一般的な線引きによれば、いまの小説には芸術であるものと、そうでないものがあります。私はそういった立場をとっていません。まだ文芸だけの話なら被害もそこそこですが、程度の高低をよりどころにすると、その判断基準を他のジャンルでも導入できてしまい、芸術でないものでも「レベルが高い」という本来目指したり姿勢として持ち合わせて当然のことがあるだけで「これはもはやアートだ」なんていうことが言われるようになってしまいます。芸術というものは、そんな簡単なものではありません。

「いまの音楽は芸術か?」と問われれば、ほとんどの人が「そうではない」と答えるでしょう。CDTVやミュージックステーションなどのテレビ番組、ジャズフェスティバルやクラブイベントを「芸術鑑賞」だなんて言うと莫迦かと思われます。では、芸術であったはずの音楽は、いつどこで大衆娯楽になったのでしょうか。

「芸術」というのは西洋の概念で、中世ヨーロッパで区別されました。芸術学や美学の歴史は古くありません(もちろん詩学はアリストテレスの時代からありました)。もともとは同じ「人間が生み出す人工物」だったものたちが、芸術(アート)と職人仕事(テクネー)に分かれたのです。芸術に入れてもらえなかったジャンルの人たちはギルドを組み、医者など他の「手を動かす仕事」と同一視されるようになりました。「アート」が人工物を指すのは「アーティフィシャル」といった単語があるのが名残です。

対する日本においては、手を動かす営みは肉体労働であり卑しいものとみなされていました。日本は「程度の高低」で芸術か否かを決める風潮があるのは昔からなんですね。そんなわけで料理や工業製品にもアートを感じたりするようなおかしなことになってしまうわけです。

となると「芸術」って何? というところにまでいってしまいます。
それは私には判りません。
語りうる資格もありません。
軽はずみに「芸術とは云々」などとは言いたくありません。

で、文芸は芸術かということについて私はどうしたか。

小説も詩も、日本にはありませんでした。西洋からの輸入品で、日本が得意とする再加工が施されています。日本近代文学の始まりは文明開化の頃で、すき焼きやカステラと同じわけです。ということは、西洋のものを日本でも作るようになったということですから、西洋の概念に当てはめてしまえばいい、という至って自然な、言い換えれば手抜きな結論に辿り着いてしまったのです。

そんなわけで、私は「芸術学」や「美学」の概念や定義そのものを基準にしています。言い換えれば、どうでもいいのです。どうでもいいといっても、芸術ではないものを「これは芸術である」などと逆に定義するような愚行には時折腹が立ったりします。それは芸術ではないですよと、たまに私は言うことがあります。すると、私が定義に凝り固まった人間であるかのようなレッテルを貼られるんです。「これは芸術である」と、そもそも定義してきたことに対応しているというのに。また、私を「定義に凝り固まった人間」であると見なすのも、何かをどこかに位置づけがちなわけで、こういうのは矛盾しているんですよね。

そして、何が芸術か芸術でないかを世に向けて言うならば、少なくともアリストテレスとカントとヘーゲルは読んでおかないと、単なる個人的な思いこみや思いつきでしかありません。でも、世の中にはそういう「個の意見」が蔓延しています。私はそういうのに相手しません。不幸にもそんな議論の輪の中(大学なんてそんなの日常茶飯事でした)に自分が置かれてしまったら「そんなのどうでもいいのになあ」と思いながら女の子の前髪を眺めたりしています。

偉大な先達たちが連綿と継承や昇華を繰り返してきて中世にようやく確立された「芸術」なるものに対し異を唱えるならば既にあるものは消化吸収しておくのが筋というかマナーです。しかしながら「芸術とは云々」言う人は、一方で「そんな過去のことに縛られること自体が間違いだ」なーんてことも言うんです。そうなると、私としては「もういっそ芸術でなくていいんじゃないか」と思うのですが、なんだか彼らは彼らが信じる表現や創造を芸術にしたがり、過去のものを俗物にしたがるんです。

これは、芸術というのが高級であるかのようなイメージがあるからなんですね。だからいろんなジャンルで芸術だかアートだかにしたがる。価格を上げることもできますし。「自分は大衆とは違う、商業主義ではない」とか言うのも、それを他人に向けて言ってしまう「行為」は商業行為に陥っています。私は、自分が作る漆器を芸術「作品」だとは微塵も思っていません。「木と樹液でできた、とてもすてきな実用品」です。しかしながら「工芸」なんて言葉があるために、芸術であるかのような錯覚があり、実用性や品質を無視して色味を最優先し、毒物を塗りたくった「作品」が市場に跋扈するのではと思ったり思わなかったりしています。ちゃんとしたものづくりをしているなら、むしろ芸術なんてところに押し込まず「とてもすばらしいもの」でいいんじゃないかと思ったりします。とてもすばらしい音楽、とてもすばらしい建物、とてもすばらしいガラス。それらが芸術かどうかなんてどうでもいい、というわけです。芸術であるから価値がある、のではなく、価値があるなら芸術かどうかなんて無関係、とも言えます。

kyokyomさんの場合は哲学書を時代順に読まれているので、そのうちいやでも触れることになるでしょうから、おかしな方向に行かないと思っています。というか、簡単に答えを出さないところが(ご本人は苦しいのかもしれませんが)信頼できますし、過去の書物の通りとしてしまった思考停止状態な私にしてみれば、そういったことを考えることそのものが敬服です。

純文学と大衆文学は、私の中で明快に分かれています。
漫画や映画になっても魅力が減らないならば大衆文学。
他の表現手段に変換できないのが純文学。
簡単に言うと、そんな感じです。

kotaさん、こんにちは~v-20
kotaさんは文学という言葉ではなく文芸という言葉をよくお使いになるのですね。
kotaさんは、小説を読んでそれを文芸作品であるか非文芸作品であるかという区別はなさいますか?
それとも小説は全て文芸作品とお考えなのだろうかということが気になっています。
よく純文学・大衆文学という区別をされますが自分自身がその区別に意味があるのかどうなのか判っていないので、混乱しがちですv-361
僕自身は、文学・非文学はなんとなく区別したいなあとは感じているのですが、しかしそれができたとしてそのことに何の意味があるのか判らないのでやはり混乱しています。
区別を設けることは必要だという人も、そんな区別には意味は無いという人もいて、実はわたくしもどちらにしたらいいのか迷いますv-284

難しいことを気軽に依頼というか、
一行目と二行目のギャップに涙が出ました。

アンドレイ・ベールイ「ペテルブルグ」1916(1923)
ヘルマン・ブロッホ「夢遊の人々」1932
ウラジーミル・ナボーコフ「賜物」1938
ジェイムズ・ジョイス「フィネガンズ・ウェイク」1939
谷崎潤一郎「細雪」1948
ルイ=フェルディナン・セリーヌ「北」1960
ガブリエラ・ガルシア=マルケス「百年の孤独」1967
古井由吉「聖」「栖」「親」三部作1976-1980
大西巨人「神聖喜劇」1978
ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」1980
小島信夫「別れる理由」1982
トーマス・ベルンハルト「消去」1986

こんな感じですかね。
いちばん短いのが「百年の孤独」なので読み応えのあるリスト……あれっ、12タイトルあるなあ。日本人ぜんぶ削除して、プルーストとフォークナー入れといてください。フォークナーのかわりにピンチョンでもいいです。それでそこそこまともなリストになるかもしれません。

ちなみに“Book of the century”は「指輪物語」だそうです。

おつかれさまでした。
世界の十大小説20世紀版を選んでください!
ジャネーはトリビアで有名になったよ。

非公開コメント