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「サントリーのごまのCMで使われているの、kotaんとこの応量器じゃない?」と、ここ数日で数人から言われました。
サントリーのごまといえば深夜にテレビのインフォマーシャルで冒険家の三浦雄一郎氏が出てきて電話して買えるという記憶しかなく、CMに展開を変えたことを知らなかった。私がテレビを観ていないからです。私が知らないからといってGRPが足りないわけではない。

で、へぇと思い観てみたら確かにそんな気がします。ロケ地は京都宇治の興聖寺だということは観て判りました。でもうちの応量器は、法衣店さん経由でお寺に納めています。曹洞宗大本山永平寺には間違いなく納めているということしか把握できておらず、判断つきかねます。そんなわけで「申し訳ございません、私どもでは判りかねますがよろしかったでしょうか」という広報室的な回答をしておきます。

いずれにしても、応量器が取り上げられ、その営みが広く知られるのはうれしいことです。食べることの本質、自然の恵みを人間が摂取する、動物だけでなく植物も生きもの、無駄にしない、たくさんの種類を少しずついただく、食べものに対して礼を尽くす、とかいった応量器にまつわるさまざまなことは、知っておいても無駄ではないと思います。などと言ってる私もまだまだです。


応量器ついでに、最近よくいただく疑問にお答えしておきます。

曹洞宗の修行僧は、応量器のいちばん大きな器でお粥を食べます。そのとき使うのは箸ではなく匙です。何百年も前から日本でもスプーンは使われていたわけですね。そこで湧く疑問のひとつに「古くから日本にもスプーンがあったのに、なぜスプーンは廃れてメインのカトラリーは箸になったんでしょうかね」というのがあります。

私見でお答えしますと、日本は器に直接口をつけて食べる、世界でも珍しい食文化を持っています(なので器のデザインも重さや口当たりまで考えなければならないところがおもしろい)。スプーンは、液体も混ざった食べものをすくい、口に運ぶものです。器に直接口をつけるのであれば、不要です。曹洞宗においてお粥を匙で食べるのは、応量器のいちばん大きなものがお釈迦様の頭蓋骨であり、そんなものに直接口をつけるのはよろしくないからです。
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コメント

shosen様
こんにちは。コメントありがとうございます。
忙しい師走になりましたね。
誤りがあったらご指導ください。

shosenさんのお知り合いなのですね。
京都ですものね、そりゃそうか。
しかしそうなるとなぜか私も親近感がわいてきます。
(というよりshosennさんが出演してもおもしろかったのに)

私が手がける応量器は、
私たちが「半艶」と呼んでいる艶具合の黒漆を塗っています。
マットでもなく、過剰な艶もない、
自然光の室内でちょうど良い感じです。
応量器の記事で、永平寺から見本としてあずかったものと
私が手がけるものを一緒に撮った画像を載せました。
艶の具合は、むしろ永平寺で使われていた見本のほうがあります。
漆器は丁寧に扱うと艶が出てきますし、
(輪島塗がつやつやなのは、呂色をとるからなんです)
丁寧に扱わなかったらくすんできます。
なので過去のものを考証するのは割と難しいんです。
貴族か庶民かなど使う人によっても変わってきますし。
(ここ数十年のものなら、見れば判ります)
非破壊検査が漆器にも用いられるようになればと思っています。

艶がありすぎると安っぽくなりますね。
私もそう考えていますのでうれしいです。
いまだ漆器の世界では、艶があるものが高級という風潮があります。
そのため、油を混ぜていたり、最後に石油由来のものを塗ったり、
なんだかみんないろんなところで知恵を出しているなあと感じます。

艶を出すには、漆と酸化鉄(黒色を出すためのもの)の他に、
松脂などを混ぜるんです。ほんとうは。
でもいまはコストを抑えるためにいろんなものが使われています。

松脂など自然素材で出した艶は、下品な光沢ではないです。

箸は、断面が楕円で端が斜めになっているのを作っています。
(サイトまでご覧いただきありがとうございます)
これは作るのが非常に難しくて、ノウハウが必要なんです。
とはいっても昔は家内制手工業でも工場制手工業でもなかったので、
単に効率や生産性を優先した大量生産でノウハウが消えた、
ということなのかもしれません。

ふつうの塗り箸の作り方は、
・完成品よりも長く木を削ったり切ったりする
・余分な長い部分を片手で持って漆を塗る
・もしくは発泡スチロールに刺して立ててスプレーガンで吹き付ける
・余分な長い部分を切り落とす
・切断面に漆を塗る
という工程です。

というわけで、あの箸は、同業の漆器職人や作家ですら、
どうやって塗っているのだろうと不思議がるものなんです。
斜めに切り落としているわけではない、
そこに塗りの境目がない、
ではどうやって塗っているのか、というわけです。

もっと太くてフォントで言うと丸ゴシック系のような断面の箸も
お寺さんへ納めています。
CMで使われているような感じです。
理由は、shosenさんならお解りかと思います。

口の中に入る大きさというか重さのものしかつまめない印象で、
箸で切るなんてことには不向きで、
ちゃんとした箸の持ち方をすれば持ちやすい楕円で、
そもそも塗り箸なのでちゃんと使わないとつまめず、
つまり、マナーとして良くないことがことごとくできない箸です。
食べる料理も、この箸で食べることができる形態になります。
そんなわけで、とてもありがたい箸です。
コンパクトなので私も持ち歩いています。

鉢単は作るのに苦労しました。
まだ初回分もお納めできていません。
数年前に永平寺からいただいた見本も、
ぱりぱりに割れていました。
何度も折り曲げるのに耐えられないんです。
(数年かかってしまうくらい、材料がないのです)

こういう課題をいただくと燃える私は商売人失格です。

和紙も大事だし、漆の中身(何を混ぜているか)も重要です。

shosenさんに申し上げる言葉としては変ですが、禅僧、雲水がお使いのものには、ひとつひとつに理由がありますね。私は、それをその通りに具現化するだけです。しかも、応量器においてのみ。ただ、具現化することすら簡単ではなくなってきています。これは私が手がける応量器と箸と鉢単だけではないです。寺社を定期的に建て替えることで建築技術を絶やさないようにしているのと同様に、建築以外のものも何かそんな感じの策があればいいのに、と思うことがあります。日本中から取り寄せて購入したけれど鉢単を作るには駄目な和紙しか日本に存在しなかった、なんていうのは根本的に間違っていると感じます。決して私が補助金(「伝統工芸」にまつわる年間何億円という補助金はなくなってしまえばいいと考えています)や公共事業でお金を得ようというわけではなく、このままいくと数百年後には鉢単が薬品漬けの紙や布製になってしまうかもしれない、といった種類の危惧があるんです。応量器も、木を使って手で挽いたのはかたちががたがたで、プラスチックで成型したもののほうがかたちがきれいだ、なーんていう「考え方」になる可能性もゼロではありません。手仕事は文章化や数値化できないことですから、なおさらそう思います。作ることのできる人が減っていけばいくほど、価格は上がってしまいますし。でも、そんな対処療法的な策ではなく、理想をいえばふつうに普及していれば作るわけなので継承されていくのにと思ったりもします。

ロケーションが興聖寺で間違っていなかったようでほっとしました。

セサミンCM

応量器に関する詳しいお話しありがとうございます。
これは私も初めて見たときびっくりしました。知り合いや後輩が出演しているので・・。
なんでオレに一言もないんだよ、って思っちゃいました(笑)

このCMで使われている応量器ですが、ずっと昔の品に比べると、ちょっとつやがありすぎるように見えます。たぶん、ここ数十年のものはこんな感じなのかな・・。
あと、kotaさんが、たに屋さんサイトで紹介されているところでは、箸がちゃんと平べったい形にされている。。これは私も感激しました。今、その箸を見ることはなかなかないでしょうね。
それから、CMで使われている鉢単は、残念ながらちょっと安物っぽく見えます。これ、ひどい品だと、折り目のトコロですぐ割れてしまいます。

応量器は、正直なところは私もふだん使うことありませんし、儀礼の小道具的な性格はあります。
でも、たとえば永平寺なんかだと、今でもみんなちゃんと日常で使っていますし、そういう意味でもしっかりしたものを持ちたい(あるいは持たせたい)のですよね。。
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