「中公新書の森 2000点のヴィリジアン」による「不完全な真空」 



文庫や新書の目録は割と好きで、書店に行って目にすると余り何も考えずにもらって帰る。主に風呂で読む。「中公新書の森」は、目録のように見えるけれど目録ではなく、中公新書が40数年かかって2000タイトルを超えたのを記念して出たもの。川上弘美(もう50歳なんですね)のエッセイや、奥泉光と渡邊十絲子の対談、そして179人にアンケートをとった「思い出の中公新書」からなる。最も印象に残る、人に薦めたい中公新書を、179人が最大3タイトルまで選び、挙げた理由を書いている。そんなわけで、私も私の中公新書ベスト10を選んでみた。

 
●プロローグ

■水波誠「昆虫 驚異の微小脳」「昆虫 驚異の微小脳」
昆虫の脳神経は、人間の10分の1くらいしかない。でも時には人間よりも遙かに早く情報処理する。脳が大きいほど「進化」していると思いがち。だが、何にでもまず最初に疑いの目をかけてしまう私は、小さいときに「大きければいいの?」と思っていた。ちょうど、ウォークマンが半年ごとに世界最小を発売していた頃だ。いまでもたとえばパソコンは、進歩していくとどうなっているだろう。そう、集積回路は小さくなる。人間の平均身長が半分になるのも進化と考えることもできなくはない。そっちのほうがエネルギー使わないし。

本書は、昆虫の生態や行動を、脳の活動から見た一冊。蟻が巣に帰ることができることや、蜂の8の字ダンスは、小学校で習った記憶もおありかと思う。学校の教育では「ぞれはなぜ?」という疑問に答えない。いちいちそんなの答えてたら小学校だけで20年くらいかかるからだ。そんなわけで疑問に答えてくれる本書はとてもおもしろく読めた。最近テレビに出ずっぱりの「脳科学者」のインチキ著書よりも、こっちのほうがあたりまえだけれどおもしろくてためになる。


■宇田賢吉「電車の運転」
私はいろんなマニアではあるが、鉄道マニアではない。そんな私でも、このストレートなタイトルにはノックアウト。何が書かれてあるのか気になってしょうがない。誰でも運転できそうだし、しょっちゅう事故を起こしているので電車の運転手というのはあまり良いイメージを持たれていない。でもそれはやっぱり個人の問題であり、ちゃんとした人もいれば、だらしない人もいる。そういうことだ。人命をあずかる責務があるという意見もおありだろうが、私にしてみれば食品会社のほうが人命を軽くみているし、自動車事故で亡くなる人のほうが遙かに多い。組織の問題もあるし、航空機パイロット並みの採用試験と給料にすれば解決するのだろうけれど、運賃に反映されるのでこれまた難しい。本書には、そのあたりのことも、実際に運転する立場からの思い言葉が書かれている。

で、電車を運転することは、電車の操縦を身につければ良いだけである。それだけだったらわざわざ新書にしていろんな人が読めるものになんてしない。では何が書かれているのかというと、電車を運転するときの心構えというか、運転中に運転手は何を考えているのかということである。これは断然そっちのほうがおもしろい。もちろん必要な知識などは網羅されているんだけれど、それは単に「運転手にはこんな知識が必要です」という羅列に過ぎない。本書が読み物として際立っているのは、エッセイでもないし、専門書でもない。何ともいえない立ち位置で綴られる、知らなかった世界を見ることができる一冊。著者は運転にかけては超ベテランだし、電車が動くことについては算数と物理に基づいて語られる。ということは電車の歴史についても触れられている。運転手みんなが著者のような人だったら、なんだかとてもすてきな世界に思える。マニアなら常識のことを簡潔にまとめてあるのが、新書の良いところのひとつ。


■角山栄「茶の世界史」
かつて日本茶というか緑茶というかお茶は、日本の輸出物のメインだった。世界初の株式会社、イギリスの東インド会社が輸入するお茶は、1730年代まで緑茶のほうが多かった。アメリカでも紅茶を飲む習慣が確立されるまでは、お茶といえば緑茶だった。きっかけは、ボストン茶会事件によってである。ついでにアメリカが紅茶よりもコーヒーなのもボストン茶会事件が理由だ。日本は明治になっても緑茶の輸出が重要だった。輸出額の順位で5番目くらいだったはずだ。それがなぜ縮小したかというと、日本に外交力がないからである。もし紅茶でなく緑茶がそのまま欧米で普及していたら、いまごろ静岡と福岡は大都会だろう。というエピソードは本書とあまり関係がない。

著者は本庄栄治郎から連なる経済史学派における最後の巨匠。歴史を政治や戦争ではなく経済から見るのは、私にとって割と理に適っている。現在の世界もそうだし。本書では、お茶を使って経済史を読ませる。これは一見逆のように思えるが、実はこっちが正しい。ロラン・バルトがシニフィアンとシニフィエを使って何かを語るとき、その対象は入れ替え可能なのと同じことだ。社会の教科書はこれでいいんじゃないかと思っちゃうくらい、多視点で書かれた本。資本主義、貿易、生産、歴史、政治、国力、いろんなものが詰まっている。もちろん、中国での飲茶の成立から英国における砂糖とミルクを加えた「ぜいたく」の象徴となって世界が覇権を競うようになるというお茶の歴史についても簡潔かつ詳細に綴られる。


■合田雄次「アーロン収容所」
著者は京大教授で、学徒動員でビルマ(現ミャンマー)に派遣された。そして英軍の捕虜となり収容所に入れられた。多くの場所で語られているように、イギリス人から見ると、日本人は人間ではなかった。まさに虫けらである。痛めつけるとか迫害するとかは、まだ人間扱いされている。著者が味わったのは、そういうものを通り越したものだ。著者が女兵舎の掃除(部屋に入るときにノックの必要はない)をしていたとき、そこにいたイギリス人の女性が、ベッドで雑誌を読み、著者の前で全裸のままベッドから出る。野蛮なものに襲われるかもしれないという恐れや、視覚による性的快感を与えるのは嫌とか、単純に裸を見られたくないとか、そういうのを超えてしまっている。著者がいてもいなくても、そこで行われていることは何ら変わらない。空気も変わらない。そこでは著者は「掃除のできる家畜」であり、人間ではないのだ。ノック不要なのも同様。これが、当時の西欧における日本のイメージなのだ。

本書は決して悲惨さを全面に押し出した涙を強要するような文章ではなく、一流のユーモアによって貫かれた、日本が培ってきた価値観やスタイルを表出した一級品だ。日本人なら「アンネの日記」や「夜と霧」を読む前に、これを読んでおくのも大事かなと思う。これは体裁が収容所体験の記録というだけで、比較文化の本でもあり、人類学の本でもある。グローバリズムという言葉は、経済についてしか機能しない。世界がひとつになるなんて無理。っていうかひとつにする必要はあるのか、それぞれを認めて尊重することが大切で、どっちが上とか誰が決められるの? なんてことを思ってしまう。民主主義や人権、ヒューマニズムなんてものは西洋の人間が考え出したもので、それは結局白人の中での約束事に過ぎない。他の人種は蚊帳の外。日本人というか黄色人種差別は、いまでも西欧の一部に残っている。かわいい雑貨や家具があり、福祉国家として先進的なイメージのある北欧の某国が、イメージとのギャップによってかなり酷い印象を与える。そのような情報は日本には入って来ないが、雑貨のイメージで安易に暮らすのは危険だ。ついでに言うと「外人」という言葉は使わない方が良い。用いるなら「外国人」だ。これは「外車」ではなく「輸入車」であるのよりも気をつけなければならない。



■北岡伸一「清沢洌」
清沢は第二次世界大戦終了直前に亡くなったジャーナリスト。ちょっと考えられないのだけれど、戦中の日本でリベラリストだった。ドイツやイタリアと組むよりも、アメリカと仲良くやっていったほうが良い、というのが彼の主旨。理に適っている。そんなわけで1941年、情報局によって執筆禁止になった。言論統制というと共産党がクローズアップされがち。でも実際は国家とは異なる、存在してはいけない考え方なんて蟹工船の共産主義だけではない。自由主義も駄目だった。とにかく自分の国だけが政治経済で勝てば良いという時代において、みんなでふつうに貿易したほうがいいんじゃないの? 特にアメリカの方法論が良いし、アメリカと対等に貿易できるような外交をすべきでは? と言えたところがすごい。当然、日米開戦には反対、三国同盟も批判。何よりも、戦争をしないことが最も重要。というのは正確ではないかもしれない。「戦争をしない」という選択をするのではなく、より善いことをすることで、結果として戦争の存在しない「世界」になる、といった感じ。

著者の北岡伸一は評伝で定評のある人。この人の文章は、人物をクローズアップすることで、読む人をその時代にいざなってくれる。余計な時代背景の描写でいざなうような安易な方法はとらない。当時の国際関係における日本の立ち位置も鮮やかに描き出している。いわゆるスタンダードな流れとは異なる角度から、太平洋戦争へと突き進んでいった様子を知ることができる。で、外交と、外交家がすべきこと、このふたつを見事に炙り出している。清沢を俎上に上げたら、現在の政治家は一人残らず困ってしまうだろう。そして、いま日本にジャーナリズムはあるのか、何にでもたてついて結論を地球温暖化に結びつけるのってどうなんでしょうねえ古舘さん。さて次はスポーツです(どないやねん


■廣野由美子「批評理論入門」
これは良い/悪い、という判断は、誰だって毎日やっている。その根拠は何だろうか。というのはマーケティングの分野なので置いとく。何かを評価するときには、ものづくりするときと同様、道具が必要だ。道具を持たず、または道具の使い方を知らずに調理された料理は美味しいか否か。稀に超美味なものになるかもしれない。でもほとんどは、ちゃんと調理したほうが良かったのにもったいない、となるのがおちである。批評は、重箱の隅をつつくものでも揚げ足をとるものでもなく、方法論によって浮かび上がってくるものだ。そこには「感性」なんて言葉の入り込む隙はない。

この本は二部構成。小説技法篇と批評理論篇。さまざまな批評理論が項目立てされて簡潔に説明されている。そこから、これは、と思ったものの専門書に踏み込むも良し、理論の名前だけを使って知ったかぶるのも良し。かといって事典のようなものでもない。誰もが知ってる「フランケンシュタイン」を題材に、小説を解剖していき、解剖過程で批評を用いるという方法をとっている。なので、道具としての批評を知るには最適。ただの事典や辞典では、実際に小説を読むときに活用することが簡単ではないというか、頭がうまく繋がらない。でもこうやって実践してもらえば、あとは何が来ようとも方法論に当てはめるだけで小説も映画も絵画も解剖できる。で、方法論が呼吸するくらい自然なものとして身につけば、世の中の見方が変わっておもしろい。そういう人がもっともっと増えてほしいと私はずーっと前から思っている。


■上山春平編「照葉樹林文化」
新京都学派、京大人類学グループの結晶で、中公新書といえばこれという時代もあった。ヒマラヤから東南アジア、そして日本と、円弧を描く地帯に広がる広葉樹林。そこには共通する文化が見られる、というおはなし。あまりに定説となりすぎたため、批判も多い。しかし、では他にどう説明できるのかというのが未だ出てこない。説のひとつとして読んでおくのが賢明かもしれない。しれないけれど、ただそれだけにしておくには余りにももったいない。何といっても、日本だけではなくヒマラヤの麓まで同じことがされていたなんて、エステールよりもロマン輝く話ではないか。

漆器もこの地帯にのみ存在する。これはもう、漆の木がそこにあるからとしか説明のしようがない。それは何かといえば、樹木の種類による世界地図の塗り分けだ。なので、私は大昔に割とこういうことがあったのだろうとふだんは考えている立場でいる。映画「もののけ姫」も、この説を下敷きにしている。ただ、この説の根幹のひとつである稲作については、現在では間違っていると私も思う。そうやって、ひとつひとつ説が潰されていく過程も、私にとっては興味深いものだ。新しいことを知ることに外ならないから。そんなわけで、この点については哲学ではなく考古学の進歩を望む。


■竹内洋「教養主義の没落」
教養主義を放棄した現在の大学は、専門学校と変わらないのでは?
もちろんスペシャリストは必要だ。
でも、あらゆる分野のスペシャリストたりうるゼネラリストが不在というのは、とてもまずい。


■宮崎市定「科挙 中国の試験地獄」
私が小さかったころは「中国三千年」だったのだけれど、どうやら最近は「中国四千年」らしい。それまでの文化や価値観を全滅させて政権がめまぐるしく入れ替わる中国において、数千年も受け継がれてきたものなんて何もない。とは言うものの、官僚採用試験である科挙だけは隋から清まで行われてきた(元の時代に一時廃止された)。西洋も日本も、権力者や階級や職業は、生まれた家によって決定づけられていた。江戸幕府の四代目を試験や選挙で選んだなんて話は聞いたことがない。科挙は平安時代の日本に伝わり導入された。でも偉い貴族は偉いままで、下級貴族にのみ適用された。権力者はみんな自分を守りたいのである。日本において世襲制が打ち破られたのは、つい最近の1894年、高等文官試験の導入によってという若さ。この試験は科挙を参考に作られた。現在の公務員試験である。ちなみに科挙を「受験」できた「中国人」は、基本的に大金持ちの家庭でなければ無理だった。仕事をしなくても勉強できる環境で育ったこと、書物を購入するお金があること、この二点が受験資格として重視されたからだ。

でもまあ最初に平等な状態にして、そこから誰かを選ぶというのは悪くない。一発逆転を狙う身分の人たちが大量に押し寄せ、受験倍率は3000倍になったそうだ。ここに中国が得意な数の誇張はないと思われる。しかしそれにしても「人を選ぶ」という過程で、よくぞここまでいろいろと考えつくなあと感心する。どれくらいすごいかというと、たとえば15歳までに「論語」や「孟子」など儒教の経典を57万字丸暗記しておかなければならない。「ちょっと科挙を受験してくる」なんて心構えでは既に無理。科挙を受験するための資格を取得するための試験があり、その地方試験ですら3日間独房に入れられる。本書で人間模様によって語られる科挙の実態は、とにかく凄まじい。単に何段階もあって「難しい」だけでしょ、とか思ってる人はこれを読むとびっくりすること間違いなし。人を徹底的にというのは中国の得意分野のようで、科挙とは反対側の拷問においても、中国は「よくまあそんなことまで考えつくなあ」と恐ろしくなるものまで実際にやっていた。たとえば歴史上実際にあった拷問や刑罰で最も残酷とされる凌遅刑は、春秋時代から20世紀初頭までの長い間行われていた。私がその刑罰の存在を知ったのは、ジョン・ゾーンのCDジャケット写真によってである。


■木村敏「時間と自己」
「時間って何?」という疑問についてはハイデッガー「存在と時間」とベルクソン「時間と自由」の2冊を読んでおけば事足りるのだけれど、これも相当かなり良い線を行っている。おまけに読みやすい(何といっても新書なのだ)。著者は精神病理学が本業なんだけれど、ちゃんと哲学のことも理解している、なんて私が偉そうに書くのも大きくズレてるくらいすばらしい本。私は、長ったらしい文章を読むくらいならチャートや図表で瞬時に理解したほうがよっぽどいいと考えている人間だ。その割にはブログが長文だなという突っ込みは置いといて、そんな私でも、時間とは何かを探るには、物理の数式が暴き出す真実よりも、こうした読み物のほうが「実感」がわく。他のことについては割と算数と論理(つまり算数)中心です。

ちなみに、これを読んでも「時間って何?」という疑問を解決できない。「自分って何?」という考察から浮かび上がる「時間の個体差」についての本なのだ。とはいうものの、何とびっくりこれ一冊で、ハイデッガーとベルクソン、おまけにアリストテレスの考えも学べてしまえる超お手軽な本。「あいだ」と「こと」について、膝を叩きたくなるくらい合点がいく。頭の中のもやもやを、こうしてすっきりクリアにしてくれるのは、哲学書ならではの機能だ。算数や理科の本では、こうはいかない。


●本題

さて、鋭い方なら冒頭でお気づきだとは思うが、今回の記事が “「中公新書の森 2000点のヴィリジアン」による「不完全な真空」” となっているのは、私はこれら中公新書を読んだことがなくレムによる架空の書物の書評集「完全な真空」のタイトルを拝借したからである。この程度のレビューなら、誰でも読まずに書ける。巷のメディアに溢れる書籍や音楽や映画などのレビューも似たり寄ったりだ。私は映画を観ずに映画のコピーを書いていた時期もある。ネット社会には、上っ面の情報だけが飛び交っている。さらに、上っ面の情報に沿ってでしか評価できなくなり、次第に上っ面をなぞるだけになる。次第にそれ以外の言葉が失われていく。飲食店のレビューや、何がどう「グルメ」なのかさっぱり判らない「グルメブログ」などは、既にそうなっている。
関連記事