古井由吉「やすらい花」



権威と名誉とお金をほしがる巷の大御所やベテランなどとは正反対に、執筆に専念したいからと芥川賞の選考委員を辞め、各種文学賞も辞退し、古井由吉は、連作小説を一年連載し、単行本として刊行する、という営みを数年前から続けている。そして、朗読会も続けている。やすらい花とは、京都に伝わる五穀豊穣を祈るお祭り。
ザ・フーのギタリスト、ピート・タウンゼント。彼はソロアルバムでギターを他のミュージシャンに弾かせている。ライブでもほとんど弾かない。ごくたまに、ただ「ジャーン」とか弾くだけだ。その音が、とてつもない確信に満ちていて、聴く者の心を揺さぶる。まるで、ずーっと立っていて、一振りで相手を仕留める剣術使いである。あるタイプのクリエイターや表現者は、この境地に達する。

多くの創作者は、加齢とともに才能が枯れ果てていく。昔とった杵柄や、ただの拡大再生産で延命しているに過ぎない。新しい引き出しが増えることなどない。自分の居場所がなくなるので、新しいことを切り拓く若者を否定する。それは定義であったり学術的なアプローチであったり、人生経験であったり積み重ねてきたものの違いであったりする。しかしそれらはいずれもエクスキューズでしかない。

今年73歳になる古井由吉は、それらのいずれでもなく、淡々と小説を書き続けている。多くの小説家が老いていくとともに枯渇していき「枯淡の境地」としか言い様のない代物を書くことでしか小説家として生きていけなくなるのに対し、古井由吉の小説は、年齢を重ねるとともに瑞々しさを増す。もちろん初期から硬質で透明感があり鋭かったし「瑞々しい」という言葉の周囲にいる形容詞がふさわしかった。つまり、純度を増している。

古井由吉の純度とは何か。正気と狂気の狭間にある非常に狭い場所であり、生と死の狭間にある非常に狭い場所であり、なおかつ生と死までもが同居している地平である。さらに、情念を情念のまま垂れ流すのではなく、その奥底にある業のようなものを描き出す手腕であり、単純に日本語文芸としての圧倒的な質の高さである。それらが年々次第に研ぎ澄まされてきていることを、年に一度の新刊を楽しみにしている私はうっすらと感じていた。

純度が高まると、どうなるか。意外かもしれないが、読みやすくなる。いまの古井由吉の小説には、かつての短編で見られた強烈な揺らぎはない。「仮往生伝試文」で見られた難解さもない。淡々と綴られている。それでいて中には狂気や死などが渦巻いている。誰でも使う日本語なのに、なぜこんな世界を創出できるのか、ほんとうに解らない。かつて私は古井由吉の短編を、ノートに書き写した。一文一文は、なんでもない日本語の文章だ。しかし何かが決定的に違う。それは、一文だけではストーリーが分からないから、とかいったものとは全く違う。古井由吉の小説においてストーリーなど最重要事項ではない。

これが「文芸」だ。

人の命も、星の命も、古井由吉が描くものも、だんだんと小さく凝縮していき、真っ白になり、透明になり、最後は光となって「無」に溶け込み消えていく。その長い長い旅路が、既に終わりへと近づき、加速しているのではとさえ感じてしまう。誰も到達したことのない純度100%の小説を生み出すのは、もうすぐという印象を受ける。しかしそれはゴールであり、言い換えれば、死だ。

新潮社公式サイト:「やすらい花」
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