Maintenant de la souvenir.

大学生のとき。
友人が私の部屋へ遊びに来た。
そのとき、セルジュ・ゲンズブールのCDを持ってきた。
フランスで出たばかりの全集。
聴いて、何じゃこりゃと思った。

それがすべての始まりだった。
セルジュ・ゲンズブールについては、以前まとめて書いた。これだ

1980年代半ばにゲンズブールがリリースしたシングル「レモン・インセスト」は、聴いてみたら聴いたことがあることを思い出した。デヴィッド・ボウイのレッツダンスにそっくりな音。たぶんMTVか何かでPVを視聴したのだろう。実の娘と半裸になってベッドで寝そべるゲンズブールの姿が脳裏に蘇った。何て唄ってるんだろう。素朴な疑問である。私は歌詞対訳がついているであろう日本盤のCDを探した。だが、なかった。第二外国語のない四年制大学という珍しいところに通っていた私はフランス語を読解することなど到底できるわけもなく、日本語に翻訳されたゲンズブールに関する書物を探した。何とびっくり、当時はなかった。雑誌で特集が組まれたこともなかった。たまに何かのメディアでちょっとだけ紹介されるだけだった。

私がゲンズブールを知ったとき、まだ彼は生きていた。

当時の私は完全にクラブカルチャーの渦中にいた。何しろゼミの先生がクラブのプロデューサーでもある武邑光裕氏だったのだ。アメリカではグランジ、イギリスではマンチェスター。次々と生まれる新しい音。ハウス、ダブ、テクノ、アンビエントハウス、アシッドジャズ。シカゴの黒人が作るハウスに身を委ね、ジジイにしてみりゃツェッペリンの焼き直しにしか聞こえないストーン・ローゼスの革命的なリズムに踊り、プライマル・スクリームによってロックとハウスが遂に出会った瞬間に立ち会い、バブルのクライマックスを享楽的に過ごした。「フレンチポップ」にまで手を伸ばす発想なんて全くなかった。フリッパーズ・ギターやブリジット・フォンテーヌを聴いてる小洒落た子、というのがその頃における私のフレンチポップのイメージである。誠に貧困な話だ。

そして1991年の春にゲンズブールは死んだ。

大学生の頃における私にとってのミューズといえば、セカンド・サマー・オブ・ラブを裸で体現したケイト・モスだった。ココ・シャネルのTVCFでヴァネッサ・パラディが見せた姿には魅了されていたしフィルムとしても素晴らしいものだったが、私は広告の世界に入ってマーケティングとアイデアを重視するようになっていたのでシャネルのTVCFは広告としてはどうなのだろうなどとひねた考えを持っていた。そう思わせる時点で優れたTVCFである、ということに当時の私は気づいていなかった。そしてレニー・クラヴィッツがブレイクし、彼がプロデュースしたヴァネッサ・パラディのアルバムが大ヒットし、それがヴァネッサ・パラディにとって3rdアルバムであることを知ると、そりゃ当然2ndも購入してみた。ルー・リードのカバーを除く全曲のソングライティングがゲンズブールだった。

エルメスのバーキンが、ジェーン・バーキンのリクエストによって作られ、後に市販化されたことは知っていた。ジェーン・バーキンとゲンズブールが夫婦だということも知っていた。ブリジット・バルドーとゲンズブールが付き合っていたことも知っていた。フランソワ・トリュフォーがゲンズブールの映画を評価していたことも知っていた。ボリス・ヴィアンがゲンズブールの音楽を評価していたことも知っていた。間章が寺山修司にゲンズブールのレコードをお土産にプレゼントしていたことも知っていた(学生時代の私にとって音楽評論家といえば間章しか存在しなかった)。そう、私の頭の中には断片ばかりがばらばらに収納されていたのだ。

1993年の秋、私はゲンズブールの生家を訪ね、墓参した。

とりあえず本国盤の全集CDを購入し、それでは何だかよく解らないからバラでリリースされた日本盤を購入していった。もちろん最初に購入したのはvol.5である。1994年、大学からの友人(現在は校正者)の引っ越しを手伝い、荷物を運び終えてオーディオをセッティングして段ボール箱から取り出して再生したのも、奇遇にもそのCDだった。93年の秋には雑誌「STUDIO VOICE」でゲンズブール特集が組まれた。ようやく日本の雑誌がゲンズブールを取り上げ始めた。私はタイミングが良かった。

そのころには立派なゲンズブールマニアとなっていたのだ。

そのとどめとなったのが、ジル・ヴェルランによる評伝「ゲンスブールまたは出口なしの愛」である。日本語訳は永瀧達治と鳥取絹子。発行はマガジンハウス。奇遇にも私は古書店で見かけて、カバー表紙にあるブリジット・バルドーとゲンズブールが(追い詰められた)写真が気になって、そしてうっすら知っている「ミュージシャン」だったので購入した。それから一気に填った。全部この本のせいだ。

私はクラブカルチャーから徐々に距離を置き、音楽は鑑賞するものと変わっていった。CDを聴いて「これは良い」と思ったら、レコードを購入する、という流れになっていた。ゲンズブールのレコードを全部集めてやろうと思い立ったのは1996年くらいのことだった。私は一旦処分したプレーヤーとカートリッジを再び揃え、ほぼゲンズブールを聴くためだけにオーディオを検討するようになっていった。もちろんその頃はいくら鉄筋コンクリートとはいえ東京のど真ん中にある集合住宅で暮らしていたため大きな音は出せなかった。でも、小音量といえども妥協したくなかった。

アナログでアルバムをコンプリートできたのは、1997年のことだ。高円寺にある、おそらく阿部和重「インディヴィジュアル・プロジェクション」の装幀にあしらわれた写真のレコード屋で、CD全集vol.5に収録された「Je suis venu te dire que je m'en vais」を大枚はたいて購入して、オリジナルアルバムが全て揃った。1995年ごろ仲良くしていた子(現在は舞踏家)がゲンズブール好きで、でもお金がないのでCDをたくさん買うこともできず、ようやくCD全集vol.4を買い、私も一緒にその子の部屋へ帰宅し、聴いて、その子は「CDじゃ何も聴けない。やっぱりレコード買わなきゃいけないのかなぁ」と嘆いた。それくらい、レコードとCDは違う。

ゲンズブールの魅力は語り尽くせない。まずは「ゲンズブールまたは出口なしの愛」を読まないと何も始まらない。これまでにもいろんなところで発言しているが、ゲンズブールの評伝はこれ一冊だけでいい。あとのものはゴミだ。この書籍を翻訳した永瀧達治の著書も私はほとんど読んだ。もちろん、雑誌に執筆して単行本に収録されていないものまでは読んでいない。
しかし、彼が私にとってのシャーマンである。私ですら語り尽くせないと思っているのに、そう思っている私の情報源がほぼこの書籍なのだ。どんだけ膨大なんだよって話である。

永瀧達治を知らない人もいるかもしれない。奥様はフランソワーズ・モレシャンである。永瀧達治は東京と金沢とパリに住まいを構え、気の向くままどこかで暮らしている。ということを知ったのはつい最近の話で、金沢にある布団屋さん の社長から聞いたのだ。私にとってのシャーマンであり、かつてはゲンスブールナイトとか言って私たちの世代の女の子たちと遊びまくっていた、ある意味にっくき永瀧達治が、よりによって金沢か、という感じである。それを知ったのは、布団の石田屋が発行している小冊子「眠音」に永瀧達治の文章が掲載されていたから。

石田屋の社長とは二年ほど前に知り合い、よくしていただいている。しかし最初私はロードバイクで遊びに行ったもんだから、私のことを体育会系の元気な漆器屋、音楽と文芸については興味なしだろう、と思っていたようである。それはそれでおもしろいから別にいやではない。私は私を定義づけられるのを嫌う。しかし、永瀧達治が出てくるとなると話は変わってくる。私は、自分がどれだけゲンズブール好きか、そしてこうなったのは全部永瀧達治のせいだ、と、クールで理路整然としてエアコンの効いた部屋が似合う無慈悲な私としては割と熱く石田屋の社長に訴えた。

そしたら、金沢日仏協会の主催で永瀧達治の講演会とパーティがあるよ、っていうもんだから、私は「ゲンスブールまたは出口なしの愛」か、永瀧達治の著書「ゲンスブール、かく語りき」のどっちにサインしてもらおうか直前まで悩み、遅刻しそうになった。後から思えば両方持って行けば良かったに過ぎない。そんなことにも気づかないくらい舞い上がっていたというわけだ。

でまあ永瀧達治を独り占めできるわけでもないけれどようやくお話することができた。困ったことに、永瀧達治は煙草をやめていた。私が大学生のときに読んだ「人生の幸福は、前の一杯と、後の一服、この三つ」とか「人生は女と煙草と酒の三角形」とか「煙は肉を保存する。アルコールは果物を保存する」とかいったゲンズブールの無茶苦茶な言葉を日本語にして普及させて日本の喫煙率低下を鈍らせた張本人がである。おいおい、と思ったが、それもまたパンクな感じがした。

ゲンズブールの真似をする男は、大したことがない。
これは私の長年の研究で火を見るよりも明らか。
真似したくなるくらい魅力的であることは確かだ。
しかし真似したところでゲンズブールと同じことはできない。
なので大抵ただのアル中ニコ中の女たらしになってしまう。

こんどは加賀の鮨屋にお連れしようと思っている。

ゲンズブールを好きな人は割といる。そして、好きな曲は割と意見がまとまっている。リラの門、ジャヴァネーズ、ボニー&クライド、ジュテーム、クーラーカフェ、などなど。私はCD全集vol.5の冒頭に収められたシングル「ラ・デカダンス」がいまでもいちばん好きだ。


七二年一月、「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」を遅ればせながらフォロー・アップする形で、同じような、いわば教会音楽のようなメロディーを使った曲が発表される。タイトルは「ラ・デカダンス」……。

 (セルジュ)ターンしてみろよ!
 (ジェーン)ノン……
 (セルジュ)俺にぴったりついて
 (ジェーン)ノン、そんなのはイヤ!
 (セルジュ)……さぁ、踊れよ デカダンスなダンスを

ジェーン・バーキン『(男性が後から女性を抱くようにして踊るダンスの)アイデアは最高でした。とてもオリジナルなダンスでした。でも、人は怖じ気づいてしまったと思ったの。つまり、女性にとって(男は後ろで、前には誰もいないから)、どこを見ていいのかわからないので、困るの。男の人はよかったんじゃない? でも、非常に露出趣味的なのよ。セルジュからそのアイデアを聞かされた時、私は「こんな簡単なことを、どうして今まで考えなかったのかしら?」って思ったのだけれど……。私は、このシャンソンは宗教的な聖歌だと思うわ……』

 デカダンスが
 快楽に麻痺した私たちの体と
 彷徨える私たちの魂を
 和らげてくれた
 ──神よ!
 われらの罪を許したまえ



 「ゲンスブールまたは出口なしの愛」p202-203


まとまりのない思い出話でした。




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