トーマス・ベルンハルト『ふちなし帽』

fuchinashibou

雑誌「Deli」で読んだ短編「雨合羽」がすばらしかったので、
待ち遠しかった短編集。
原文を読んでないので推測だが、訳者が後書きで『消去』の訳業を絶賛していることから、やはり原文は『消去』に近いものだったのではないかと思ってしまう。雑誌「Deli」に掲載された短編「雨合羽」の訳文も、トロワ・ポワンの連なりで終わっているすばらしいものだった。ベルンハルトの特長とは非常識な文体であり、改行が少ないことは知られているが、もっと重要なことがある。ピリオドがない。それらを移植できなければ意味がないとまでは思わないけれど、ベルンハルトの魅力を日本人が享受できないし、なぜ延々と呪詛が続くのかを間違って認識してしまう。実際ほとんどのネットにあふれる書評と名乗った書評もどきの感想(もちろん俺の書いているこれは感想)では、痛快な毒舌の炸裂、といった評価ばかりだ。ベルンハルト(の小説内の語り手)は、ただの才気溢れる毒舌家ではない。呪詛をやめれば死んでしまう、呪詛し続けることが生き続けるということだ。だから延々と続き、最後にピリオドが打たれることはない。

息の長い文章を訳すのだから大変な作業だということは判るが、ベルンハルトの小説を読んでもたらされる酩酊感は、読点の位置がおかしくて前後関係が分からなくなるからではない。語尾を「なのだ」「である」で終える訳文が目立つ。『消去』においては「だ」で終える文が多く、それが怒濤のように繰り出される呪詛としての効果を引き立たせていたし、ベルンハルトといえばそのリズムが文体であると『消去』を読んだら思ってしまう。さらに、時には体言止め、時には半過去を用い、独特のリズムを形成しながらも冗長にならずにどんどん読むことができた。

表題作「ふちなし帽」のはじめのほうに出てくる、語り手である主人公が「思考のアクロバット」をやるときの対象のひとり、リービヒとは、肉骨粉を開発した科学者。循環型社会を理想とし、日本の生活習慣を高く評価した。林学と畜産農業は、密接なかかわりを持っている。訳者あとがきは微妙なボリュームなのだが、これを「未詳」で片付けているところからすると、何も調べてないのだろうか。
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