Katachi - Die leise Form aus Japan



日本の職人技というよりデザイン家具なムードも少々流れ込んで来た感もあるのですが、それでもまだ無名の「デザイナー」と「職人」による技と機能がフィットした「モダンデザイン」のセレクトとなっている、ドイツ、ベルリン、バウハウス資料美術館での「KATACHI」展、大好評のうちに終了とのことで、展覧会の様子やテレビ番組の動画リンクを、キュレーターの方に教えていただきました。選定出品されたのは、曹洞宗大本山永平寺御用品である応量器と禅僧三点揃いをはじめ、9アイテム。
art-in-Berlinというサイトでの動画はこちら
1分55秒に応量器と禅僧三点揃。

ベルリンTVというおそらくテレビ番組内でのスポットがこちら
0分01秒から応量器と禅僧三点揃い。
0分09秒からのアングルには、上段右から私のものではない何か、
黒柿の中棗、薄挽干菓子盆、氷壇盃、HIKIHARI、そして下段にはneroがいます。





かれこれ3年くらいいろんな展覧会に出品されながらヨーロッパを回っているのだけれど、neroのような四角い板状の漆器でも変形せずに観賞に堪えうるというのは、木の乾燥と下地が「まとも」だからです。乾燥している環境に長時間置いておくと、質の良し悪しが判ります。表面が劣化するものもあれば、変形するものもあります。前者は塗りが粗悪、後者は木地の乾燥が手抜き、というわけです。私は因果論に懐疑的ではありますが、ここでそんなこと説明していたら長くなるので省いて、というか省くどころか立場を変えて「物事すべて原因がある」とみてみると、誠に判りやすい因果関係です。

下駄は、板を合わせて紐を通しただけのものかもしれない。それに上質も粗悪もないだろ、ブランドだけでしょ、と思うかもしれない。でも、まっとうな仕事をして作られた下駄は、変形することもないし、左右の音が同じだ。漆器の重箱の木地を手がける箱物師が下駄を作っても上質にはならない。逆も然り。板を扱うといっても、重箱と下駄と家具ではノウハウが違います。

これはとても日本的な現象で、西洋では「板を合わせて作る」という行為の単純化をしたときに残るものが共通であれば、同じ人が割といろんなジャンルのものを作ります。で、漆器の世界に立ち戻ってみると、同じ人が職人として依頼を受けて実用品を作ることもあれば、作家として作品を作ることもあります。これは「漆」という最低限の共通事項をもって、ふたつのジャンルを手がけている、ということになります。ひとつの身体にクラフトマンとアーティストは同居するのか。私には判りませんが、漆器に限らずあらゆる工芸の分野にその手の輩がたくさんいるので、同居できるのでしょう。でも私にとっては、両立している人たちの「作品」は作品ではなく「豪華な実用品」です。

作品と商品の境目は何か。私にとっては明快です。伝統工芸の世界の作家が作る作品は、私にとっては商品です。芸術作品ではありません。人間国宝が生み出す素晴らしい漆器、それでいいじゃん、なんで芸術にするの、と思います。たぶん芸術ってのが上位概念であるかのようなイメージがあるからでしょうね。それもまた西洋の罠なのですが。それはともかく、人間国宝が生み出す素晴らしい漆器は高価です。なぜ高価なのか。木目の素晴らしい稀少な木を使ったり、豪華絢爛でありながら精緻でもある蒔絵を施していたりするからです。そう、とても判りやすい値付け方法なのです。これは、一昔前にメーカーが行っていた価格戦略と変わりません。対する芸術作品は、素材の原価や制作日数による日当などで価格を設定しません。何の使い途もないオブジェ。表面が漆塗り。これはいっせんまんえん。そんだけです。

日本では「これは何に使うものですか?」という質問が多い。私も訊かれるし、尋ねることもある。何かに使える「機能」がなければいけないかのような感じです。単なるオブジェに大枚はたけないのです。なぜなら、価値観や指針がないからです。片手の中に納まる、無理矢理何かに使おうとしたら文鎮にしかならぬガラスの物体、それに数万円払う、というのが常態になれば、日本の工芸の世界は潤うかもしれませんね。なにしろ原価率がとんでもなく低いですから、芸術は。

とはいっても、日本が西洋で感嘆されるのは、技術であり、職人技術です。芸術なぞ西洋から輸入した概念で、そっちの世界で西洋に挑んでも歴史が違うし土壌も違います。せいぜいBig inJapanです。しかし職人技術、それも日本の工芸技術、これはあたりまえのことだけれど日本が最も優れています。光が透けるほど薄く挽いた皿、左右が同じ音でいつまでも変形しない下駄、ぼろぼろにならない箒、接着剤を使わず組んだのに水漏れしない桶、そういった工芸技術は、純粋に西洋の人も賞賛し、認めます。実用品に宿るもの、それがなければ具現化できなかったもの、そういうことを見抜く力も西洋人のほうが卓越しているわけです。

そして、職人は、自ら形を司ることはなく、誰かが決めた形を作ります。それが職人です。不況だから自分で売った方が利益率も高いし名前も出る、と考えている職人はいろんな分野に沢山います。私は、そのことに対してどうこう思うことはありません。どうぞどうぞ、自分で考えて、商品開発して、営業してください、という感じです。つまり、とても作る時間などありませんよ、そのうち弟子をとったり外注したりする羽目になりますよ、という意味です。

職人と呼ばれる仕事は、クルマの部品製造やネジやパッキンなどを作る大量生産型から、少量生産の工芸品まで、たくさんあります。受注が減った、ではどうする、というときに、自らが営業するのもそりゃまあひとつの方法です。しかし、問題解決になっていません。もし私が職人なら、作家活動なんてしません。あくまでも下請けでありまずが、私に依頼しないとそれが作れない、という技術を身につけて確立します。で、その技術の提供先を変えるのです。もしくは、海外にまで広げるのです。

実際、賢い職人たちは、安価な中国製にシフトしきっているメーカーなどもはや相手にしておりません。その技術にはそれだけの対価を払う価値があることを判っている海外を相手にしています。これはとてもすばらしいことだと思います。技術の流出はないし、日本は黒字なわけだし、せっかく築き上げてきた技術が廃れることもない。
時代や環境が変わっているのに、職人の仕事のやり方が昔と同じでは、通用するはずがありません。業界内の小さな世界では通用するかもしれません。でも、世界は日々変わっています。不況だ何だと他人のせいにして、そんで自分は変わらない。それじゃ変わらないのは当然です。そんなことをボヤく時間があったら、より自分の技術を向上することや、見聞を広め深めることに費やすほうが良いのに、と単純に思うことがあります。

見ている人は見ています。ヨーロッパで評価される日本の職人技術は、私から見たら真っ当な評価です。えっ、こんなのよりももっといいものあるのになあ、ということがありません。これは当然のことで、あっちの人たちは日本国内での力関係や制作現場やネームバリューなど知るわけなどないので、技術のみで判断するしかありません。なので超シビアなのです。漆器だ、国産だ、漆だ、蒔絵だ、どうだ、とか言ってるだけで一定の評価をもらえる国内とは話が違います。

というわけで、棕櫚箒をはじめとして真っ当なものをふだん使いする私としては、このような展覧会を日本でも開催してほしい、わけなどなく、こうしたものだけが揃っているショップが日本にあったら、全部そこで買い物できるのになあ、と思います。箒を買うために京都へ行くのは私の範囲内です。しかし、鋏ひとつ購入するために種子島へ行くのはどうなんだろうと思うわけです。ええ、もちろん自分勝手な話だということも自覚しております。

漆器は日本のものだからいいよね、分かりやすくて、海外進出もしやすいし、といったことをよく言われます。しかしながら私はそうでないと考えています。まず、漆器を使うときは箸を使います。そんなのが「ふだん使い」になるでしょうか。そして何と言っても、食器を手で持ち上げるなんて食事作法は、日本だけなのです。スープボウルを持ち上げて、直接口をつけて啜る、そんな人いません。西洋の人にとっては、皿が軽かろうが重かろうが知ったこっちゃないのです。熱伝導率など関係なく、器は熱いほうが美味しいのです。美しい皿であればだいたいパ・マルなのです。

家具やインテリア雑貨が日本から西洋に、というケースが何の障壁もないのは、それをひとつ購入しても、いまの部屋に馴染むからです。ライフスタイルを変更しなければならないなんてことはありません。食器においても、陶磁器や鉄器やガラスは彼らの生活に溶け込みやすい。

現在でもわずかながらオリエンタリズムが残っていることを、はっきりと知覚します。

でも一方で、多くの日本人よりも日本文化や工芸に理解が深い西洋人がいることも事実です。
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