ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン「原因と結果:哲学」



さて、ウィトゲンシュタインの著作すなわち思考といえば、前期が「論理哲学論考」で後期が「哲学探究」というのがお決まりであり確かに片方だけではまずいかもしれないし、どうだって良いかもしれない。で、哲学を体系的に把握する場合には代表的著作さえおさえとけばオッケーなことは他の哲学者たちと同様。ではなぜ「論考」と「探求」以外の本書をおすすめするかというと、今年出たから。このブログでは新刊でなおかつ読んでおすすめできるものだけを取り上げようと決めたからである。そんだけの話。
という誠に勝手な私の都合は置いといても、書籍化されたヴィトゲンシュタインの言葉はおもしろい。以前取り上げた「哲学宗教日記」の厳しさと深さは風情を楽しむ日本の日記文学とは全く異る世界を見せてくれるし、これは取り上げていないのだけれど「反哲学的断章」の凝縮されながらも軽さも持ち合わせた語り口で綴られる音楽や絵画などについての考察などは、思考の固定化/形骸化を防ぐことに役立つばかりか単純におもしろいので何度も読んでいる。

 本書「原因と結果:哲学」も、ヴィトゲンシュタインが書籍として刊行することを目的として書かれたものではない。何しろ生前に刊行されたのは「論理哲学論考」と、子ども向けの辞書だけなのだ。というわけで、哲学を体系的に知るには全く不要な、でもヴィトゲンシュタインの哲学(それを哲学と呼んで良いのなら)に親しんでいる人にとっては、とてもうれしい贈り物。本書がおもしろいか否かは「哲学探究」を読んだか否かで大きく変わる。決して出版社が謳うような「入門」ではありません。これは売上重視のための売り文句に過ぎません。

ヴィトゲンシュタインは、たくさんのメモをノートに記した。その遺稿は現在フォン・ライトによって番号がつけられている。ヴィトゲンシュタインは、大量のメモから選り抜いて、ひとつの原稿としてまとめた。そのひとつが「哲学探究」だ。本書の後半「哲学」は、まさしく「哲学探究」が成立する基となったメモだ。なんというか、例えが安くて恐縮だが「スター・ウォーズ」を観てから「スター・ウォーズ:エピソード1」を観るようなものである。うん、やっぱりこの例えは違う。

前半の「原因と結果」は、日付別に並んだ断章群で誠にスリリング。ヴィトゲンシュタインは、1936年11月はじめから12月8日の間に「哲学探究」の188節までを、その後11937年5月はじめまでに残りを書き上げたとされている。で、この「原因と結果」は、1937年9月24日から10月22日までのメモ。解りやすいように、日付順ではない構成となっている。「哲学宗教日記」よりも論理哲学にフォーカスしているので、読んでいて辛くない。

この場合の「辛い」は、読みづらいとかいった類の辛さではなく、求道者の生活を垣間見て感じる辛さと似ている。

書き出し(となってしまった箇所)は、とんでもなくたまらない。まるまる2ページ書き写す。

1937年9月24日
 もし誰かが「彼があのように恐ろしい表情を浮かべているので、私はぞっとする」と言うならば──ここでは、実験を繰り返すことなく原因が直接認識されるように思われる。
 ラッセルは、実験を繰り返すことを通じて何かを原因として認識する前に、直観によって何かを原因として認識しなければならない、と言った。

 これは何かを測定によって二メートルだと認識するまえに、何かを直観によって一メートルだと認識しなければならないと言っているようなものではないか。

 つまり、あの直観というやつが実験を繰り返すことによって論駁されるとしたらどうであろうか。そのときどちらが正しいのか。
 そうすると、われわれが「原因として認識する」経験について直観がわれわれに語ってくるものは何か。対象、すなわち原因に対するわれわれの側の反応以外のことが問題となっているのか。

 われわれは、その痛みはわれわれが受けた打撃に由来するということを直接に認識するのではないか。打撃が原因であって、そうであることへの疑いはありえないのか。──しかし、われわれがある場合にはこのことについて欺かれるということは、まったく十分に考えられうるのではないか。そして、後になって欺かれていることに気がつくということが考えられうるのではないか。何かがぶつかったように思われ、その際痛みがわれわれのうちに引き起こされる。(ときとしてある動作によって物音がしたと信じることがあるが、その後でその物音はわれわれのせいではないと分かる。)
 そして、もちろんここには確かに「原因の経験」と呼ぶことができるような本物の経験がある。しかし、それはこの経験が誤ることなく原因をわれわれに示しているからではなく、原因を探し求めるときに、原因─結果の言語ゲームのひとつの根っこがここにあるからなのである。

 われわれは原因に反応する。
 何かを「原因」と呼ぶことは、指をさして「こいつのせいだ!」と言うことに似


たまりませんね。え、そうでもないですか。

哲学書には「難解」というイメージがつきまとう。確かに難しい。他人の思考を理解しなければならないから。大衆小説を読むように感情移入などしていられない。また、この手の文章は「私は○○であると考える」といった文体とは無縁でもある。でも、文末に「と、彼は言った」と頭の中でつけ加えれば「彼はこう考えている」というふうに自分の頭の中で整理できる。それを凄いと思うか「なーに言ってんだか」と思うかは人それぞれ。でも、何言ってるか判らないから駄目とか、大雑把に哲学を俯瞰する初心者ガイドみたいな一冊で解ったつもりになるとかは、もったいない。なんといっても、自分じゃ一生かかってもそんなところにまで辿り着けそうにない地平にまで既に行ってくれているのだし、その世界を文字が印刷された本というもので手軽に享受できるのだ。読まないと損。ヴィトゲンシュタインが「論理哲学論考」で書いたように、哲学は学説ではなく活動なのだから。

ブログやツイッターなど「文字」だけのコミュニケーションが日常において爆発的に増えている。そこでは「文章だけでは上手く伝えられない」といった言い訳じみたものを時折見かける。私は、そんなことこれっぽっちも思ったことはない。私が冷たいと思われる原因のひとつかもしれないがそれは個人的なことなので割愛すると、本書の訳者解題ふたつだけでも立ち読みすれば、その手の「いらつき」や「どうにもならなさ」や「言葉だけではどうのこうの」といったことが解決される。もちろん訳者のバイアスがかかっているのだけれど、さほど問題でないような気がするし、後々重大となっても、それはそれで良きことかなとも思う。

訳者にとって初の書籍らしい。
なので、はじめて本を出したときにありがちな後書きになっている。
それは読まなければ良いだけの話。
何らヴィトゲンシュタインとは関係ない。

とても短い文章(本文88ページくらい)なので、サラダ感覚でいけます。


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ウィトゲンシュタイン『哲学宗教日記 1930-1932/1936-1937』


Wikipedia日本語版:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
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