古井由吉「蜩の声」



2011年の漢字は「絆」だそうだ。
軽い。うわっつらだけだ。何かを誤魔化そうとしている。
ノンと言わせない言葉を提示し「それでもうこの件はおしまい」とでも言いたげだ。
 


そもそも「今年の漢字」を発表している漢検協会が、理事長の会社から協会本部のビルを年間1億8千万円で借りてたり、資料館とかいって6億7千万円の邸宅を購入したり、なんだかんだで17年間で250億円もの大金が理事長の会社へ流れていて、私的流用はないと言ってたのに協会名義のカードで4億8千万円も遣ってたり、勤務実態のない自分の娘に役員報酬を与えたりしていて、さらに「記者の態度が悪い」とマスコミ批判したり、何を言われてもまさに言葉だけな感じであります。漢検など不要ですよ。私の周りに漢検もってる人なんていません。無意味だからです。むしろそんなものに何を頼ってるのか全く理解できませんが、持ってると阿呆扱いされかねません。また余計な話から入ってしまった。

どんなに鋭利な言葉を刻んできた書き手であろうとも、老いと無縁ではいられない。歳を重ねると、自分に甘くなるのか何なのか、何やら急激に身辺雑記まがいのものを「小説」として出して何ら恥ずかしくない境地に達していることがほとんどである。文字を書けるからといって、幾つになっても小説家や詩人でいられるわけなどないのに。喋れるからといって歌手を続けられるかというとそんなことはないのと同様に。

多くの小説家は、晩年、枯れた味わいの、枯淡の境地の、静かな日常の、とか評される、要するに「文芸作品」とはとても呼べない代物を、単に「作業を覚えている」から綴っている。何もない日々こそ幸せ、ありがたい、とか今さらそんなことを小説で言われても、若いころのあんたはもっと文芸を追求してきただろとはっぱをかけたくなる。一度そうなってしまったら、私はその書き手の新刊を二度とてにすることはない。結成何十周年か知らないけれど耄碌したジジイのバンドが金儲けの集金ツアーで日本へ来ても、そんなの行くわけがないのと同じこと。

といったよくある老い方とは全く異なる、古井由吉。74歳。

叙述のテクニックを使ってメタフィクション、とかそんなお手軽なものではない。小島信夫も晩年は小説と日記とエッセイが渾然一体となったものをノホホンと発表して凄まじい世界を見せてくれたのだけれど、古井由吉の描き出す現実と小説の「曖昧さ」は、もっと研ぎ澄まれている。徹底的に研ぎ澄まされている。研ぎ澄まされた曖昧さって一体どういうことなのと思うかもしれないが、読めば判る。

違うものを観ているとか、霊魂じみたものを察知するとか、あっち側を観たとか、五感の「能力差」でもってものする書き手もいる。でたらめかもしれないけれど、誰にも検証できない。はあ、そうなんですか、と思うしかない。筆致がなっていないのだから読めない。古井由吉はそうではない。一般常識的な能力だ。ただ、それが異常に鋭い。ボケたジジイとは真逆である。おまけに、そのことについてとことん考察してきた人だってことが読めば簡単に判る。そしてそれがとても濃い。読者大賞とかその手のものを読んで読書好きとか文学好きとか思ってる人たちは、濃密な世界に拒絶反応を起こすかもしれない。

濃密というと、筆圧の高い文章を思い浮かべるかもしれない。石原慎太郎や中上健次のような。古井由吉の文章は、筆圧の高さで濃くしているわけではない。描き出すものが、濃い。むしろ文体は淡々としている。さらりとしたコットンのような肌触りだ。なのに濃い。こんなのなかなか書ける人はいない。散文といえどもここまでくれば芸術品、翻訳も不可能だろう。だから大好きだ。

わけがわからない、というのはとてももったいない。
読み慣れてくると、それは「めくるめく」に変わる。
読んでる途中で笑っちゃうことだってあります。
化学調味料に慣れちゃってたら、何の味もしないかもしれません。

このブログ記事の末尾に各新聞社の書評ページへリンクを貼っておきます。
そのひとつに、古井由吉の言葉が載っている。

〈創造的な復興〉〈がんばろう〉…。震災後に聞いたさまざまな言葉は、どこか「軽い」「浮いている」と感じたという。そうした言葉の衰弱は、圧倒的な力に襲われることもなく「押せ押せでこられた」戦後66年の歴史と無関係ではない、とみる。
 「安泰が続くとみんなが同じ現実を共有していると思い込んで意思疎通も短い言葉ですませてしまう。自然、言葉は切れ切れになっていく。これでは危機が迫ったときに言葉が追いつかない」。一方で「震災で味わわされた言葉の無力感をじっくりかみしめ、緊張感を意識の底に持ち続ければ事態は変わる」とも話す。

「蜩の声」は、近年の古井由吉がそうであるように、雑誌への連載をひとつにまとめたものだ。その間に、震災があった。全八編。震災後に書かれたのは二編。古井由吉は、敗戦を経験している。疎開先の岐阜では空襲も体験した。東北大震災によって蘇る記憶。永い永い小説家としての営みを続けてきて、戦争のことについて書いたのは、初めてとのこと。

意識の流れ、という文章作法の試みがいまいちだったのは、それをテクニックとして分類しちゃって後から誰もが「手を加えることができるもの」と思った身の程知らずの浅はかな輩が現れたからいまいちなもので溢れかえったからであり、ウルフはウルフであり、フォークナーはフォークナーである。小島信夫や古井由吉が綴っているのは、意識の流れという形式によってではない。では何なのかというと、それはもう小島信夫の小説で、古井由吉の小説、としか言い様がない。言い換えると、誰にも真似すらできない、ってことだ。

また、古井由吉の小説は、視覚的でもある。ありがちな「映像的」という表現とは異なる。映像的な描写なんてのは、いわゆる小説の書き方を覚えれば誰にだって書けるものであって、大衆小説にもその手の描写は頻出している。そういうのとは異なり、視覚的だ。文章が頭の中で映像化されるという安っぽい手続きではなく、端的に言えば視覚に訴えてくる。

凡庸な物書きは、あら削りで不正確な表現を正確な表現に、あまりにもすばやく置きかえてしまわないよう、用心すべきである。置きかえることによって、最初にひらめきが殺されてしまうからである。そのひらめきは、柄は小さくても、生きた草花ではあったのだ。ところが正確さを得ようとして、その草花は枯れてしまい、まったくなんの価値もなくなってしまう。いまやそれは肥だめのなかに投げ込まれかねないわけだ。草花のままであったなら、いくらかみすぼらしく小さなものであっても、なにかの役にはたっていたのに。

 ──ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン「反哲学的断章」青土社, p208

どのようなジャンルにしろ、多くが凡庸なのだ。それが凡庸としての在り方だから。小説家という時点で非凡と捉えてしまうこともあるかもしれない。でも当然、多くの小説家も凡庸なのだ。非凡なのは、物の見方や捉え方が卓越していたり高次元から俯瞰視できたり、これはどういうことなのかを見抜く力だ。これは、何を書くかの問題。そして、日本語を用いた文芸として技術を駆使し表現しひとつの小説としてまとめ上げる力。これは、どう書くかの問題。

片方だけでもろくにできない小説家ばかりの昨今、現役最高齢と言ってもいいくらいの古井由吉がいずれにおいてもすばらしいという事態は、とてもとても寂しい。モチーフは他人の小説からパクッて擬古文で仕上げてはいできあがりとか、とにかく物語をおもしろくすることしか頭にないような代物とか、そういう薄っぺらいものばかりでは、最も核となる人たちが愛想を尽かして海外や古典に走るのも致し方ない。それを恰も若者の活字離れのように捉える出版界は、もう阿呆としか言い様がない。ファストファッションに興味のない人間は、ファストノベルにも興味はない。

小説家の川上未映子は読売新聞の「蜩の声」の書評を、このような書き出しで始めている。
物と物のあいだや時間には、じつは境目は存在しない。
物事は蚊柱のようにあるだけで、内容は常に出入りを繰りかえしている。境目があるように思えるのは我々の指先や認識の感度があまりに鈍く、またそれらを名づけて区切りでもしないことには、世界の茫漠さと無意味さに、少しも耐えることができないからだ。

何か言ってるようで何も言っていない、言ってるとすれば書き手が何か鋭い視点を持っていて賢いように思われたいということだけなのだけれどそれはともかく「境目が存在しない」というのは、あくまでも考え方のひとつだ(そして、○○がない、というだけでは圧倒的に説明不足だ)。物と物の間には、境目がない。とすればこれは世紀の大発見である。一体どういう事なのか私は興味を掻き立てられながら続きを読むが、では一体どういうことなのかは全く書かれていない。書かれているのは、おまえらは鈍感で、気づいている自分は鈍感ではない、ということだけだ。消化不良もいいところである。時間については過去の哲学者が様々な解釈をしてきた。連続するものと捉える哲学者もいたけれど、そうではないことに現段階では一応落ち着いている。その状況でこう断言してるのだから余程のことがあるのだろうと思いきや、何もない。苫米地なんとかっていういんちきくさい人物が「時間は未来から現在にやってきて過去へ去る」とか言ってて、そんなギミックでも出してもらったほうが余程おもしろいのだけれど、そういったサービス精神にも欠けている。カテゴリー錯誤をさらにカテゴリー錯誤したかのような不毛の荒野。

大丈夫だろうか。

蛇足ながら川上未映子氏は、阿部和重氏と結婚した。阿部ちゃんに悪影響を及ぼさなければいいのだが。夫婦としては子作りに励んでいればいいから変なこと喋んなよ、とか思ったりもするのだけれど、こういうのこそほんと余計なお世話というものである。でも心配だ。

生きる見本があるうちに、薄っぺらくて俗な世界から抜け出し、文芸を極めようとせん書き手がひとりでも現れることを願うばかりだ。小島信夫が亡くなってからでは、あのノラリクラリとしたメタ小説の凄みの秘密は、解き明かしようがなかったのだから。でも、古井由吉が生きている間でも、こんなわけのわからない駄文で書評されてしまっていては、もうほんとに目が曇りきって脳が緩みきっているとしか思えなくなり、私も主に古典と海外へ目を向けてしまう。

論理や文明やシステムよりも、自然の営みや何やかやを見つめているといった感じで古井由吉ご本人から語られる言葉とは裏腹に、私は、彼は、あっちの世界へ行くのを理性でどうにか抑えて「保っている」という印象を受けることが、ときどきある。だからこそ、よけいに畏怖を覚える。賢く強靱な人でなければ、とうに飲み込まれている。

初めて読むなら、初期の短編集「杳子・妻隠」が読みやすくて廉価。
文庫で手軽な短編集としては他に「水」や「山躁賦」がおすすめ。
で、やはり真打ちは「仮往生伝試文」でしょう。
近年の作風がどうなのかを知るには、珍しく文庫化された「野川」があります。
でもいきなりこれだと、ほんとつかみどころがないでしょうし、
せっかくなんですから執筆順に全部読むのが筋だとやっぱり思います。

と書いてから、サービス精神豊富な私はbk1かamazonのリンクを貼って、と思っていたら、なんとびっくり「杳子・妻隠」 が絶版の模様。腹立たしくなってまいりました。ワンコインでお釣りがくるほど廉価なのに中身はすばらしいし、まだ読みやすいほうだから、まずは読むならこれをとおすすめしてきたのに。いきなり講談社文芸文庫の価格帯にまでハードル上がったら、そりゃ読む人いなくなるよ。アホだなほんと。古井由吉がどれだけ稀有な存在で、しかも死なずに書き続けている(書くことに専念したいから芥川賞選考委員をはじめとした文壇のいろんな役を辞めた)という、稀有中の稀有だということを、出版界がお解りでない様子。でもやっぱり、腹立たしいっていうわけではなく、知ったことか、という感じでございます。古井由吉の小説作品は全部持ってるし。

産経新聞書評
読売新聞書評
毎日新聞書評
日経新聞書評
講談社 古井由吉「蜩の声」
Wikipedia日本版 古井由吉




画像は、昨年末の納め参りのついでに、山中温泉の某社。
初参りは、町内の漆器神社へ詣でました。
自分が暮らす土地の神様を蔑ろにして、遠くの有名神社へ行ったところで、って思いますよ。
そもそも、有名な寺社へ初詣、ってのは鉄道会社が謳い始めたんです。

で、この山中温泉にある某社は、大杉が有名で、大杉のために整備されちゃっています。しかし本来は、鎮守の森と言われるように、社の背後に木々が繁っているもんです。肝心なのは森で、社はあくまでも窓口に過ぎません。この山中温泉にある某社といえば、背後も横も無惨な姿。とにかく大杉を守れってんで、何とも酷い有様。大杉で観光客を集めようとするからそんなことになっちゃうわけです。森なくして神社はありません。南方熊楠だってそう言ってます。ここはもう、人間の欲にまみれて神様はいないんじゃないかなというくらいの俗な場所に堕してしまいました。

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