辻新太郎

先日、うちの新年会があった。



 
私たち「漆器屋」は、それぞれ職人会のようなものを構えている。今では廃れつつあるけれど。そんなわけで、うちの職人会に入っていらっしゃる職人だちとの新年会があった。一年間ありがとう、今年もよろしくお願いします、みんながんばりましょう、というわけだ。うちは自営業なので、うちだけならば忘年会も新年会もない。スタッフがいないのだから。職人会というのが、全ての工程が分業化された山中漆器特有のものなのかどうかは、他産地のそんなところまで見聞するわけもないので、分からない。

私の父は、飲酒を禁じられている。もう何度も救急車で運ばれている。医師からも、一滴も飲んではいけないと言われている。医師からは呆れられている。ならば、一滴も飲んではいけない。これはもう絶対的な前提条件だ。もう私は父がみすぼらしく入院して医師にぼろくそ言われるなんてまっぴらごめんだと思っている。それは至って自然な感情だと自分では思っている。アルコールをどれだけ摂取したら倒れるかなど、誰にも判らない。一滴で倒れるかもしれないし、たとえば日本酒を何合か飲んでも意識があるかもしれない。でも、その境界線は誰にも判らない。なので父は酒を飲まないようにしている。はずである。

さて、新年会。まず、宴会の乾杯、つまり昼食を摂取してから数時間経ってから口にするものだ。そこで父は乾杯の酒を口にした。そこで私は父を止めるなり窘めるなりすべきだったと今では思う。どのような止め方かは別の話としても。そこで止めていれば傷は深くなかっただろう。でも、そこで止めていたなら、決定的なところにまで及ばなかっただろうし、はっきりと明確になることもなかっただろう。

宴会が終わり、場所を移動して二次会となった。そこで父は、ビールが注がれたグラスを持ち、乾杯の音頭を待っていた。そこで私は父に指摘した。特に返事はなかった。返事がないということは、そのままの流れで行くということである。それは防がなくてはいけない。なので私は、私が悪者になることくらい百も承知で、父に烏龍茶の瓶を投げつけた。

すると、木地師の辻新太郎氏がキレた。

いくつかの応酬があった。職人のひとりが、白けて帰ると言い出した。辻氏も、私のことをアホ呼ばわりして、職人みんなを自分の見方につけるべく、うちの職人会は今ここで解散と宣言し、二次会はなくなった。大事な大事な新年会が台なしになった、全てはこいつが悪い、というわけだ。まず、何も「交通」のないそんな時点でキレて、自分と考え方の異なる対象を突然に阿呆呼ばわりするというのは、意見の交換にならない。

で、彼は、新年会の会場である旅館のロビーで暴言を撒き散らしながら私を呼び、対話することとなった。まず私は二次会が乾杯をする前に駄目になったのは私の失礼な言動によってであったことを伝えた。なぜそうしなければならないのかを伝えた。しかし考え方は平行線で埒が明かない。なぜそうしなければならなかったのか、なんでおまえはあんなことをしたんだ、といった言葉は彼から出なかった。おまえはアホだ。それだけ。辻氏は、父に対しても、しつけをし直せとか言っていた。もうお前との関係はないとまで言われた(それを一方的に判断するのもおかしな話だが、それを説明するとまた長くなるので省く)。とにかくアホの一点張りで、アホと決めつけているっていうのは何も対話や議論にならないわけで(どのようにアホなのかという説明なり問いなりがあるはずだ)、その段階で白黒すいているようなもんだけれども、とにかく彼はアホを捨て台詞にして帰ろうとしていたので、それじゃなんにも話が始まってすらいないから、私は基本的なことを確認したくて、旅館の出入り口の前に立ち、彼の肩を掴んだ。すると辻新太郎は旅館のスタッフに警察を呼べと言ったのだけれどそれは別にいい。私としても呼んでもらって何ら構わないのだし、この狂犬を保護して矯正してほしいとすら思った。

で、私は与件を整理して訊いた。「酒を止められている人間が酒を飲もうとしているのを止めるのと、大事な儀式だから乾杯の酒をちょっと舐めるのと、どっちがいいんですか、人が倒れても儀式が大事なんですか」と。すると彼は言った。「儀式だろアホかおまえは%&$#('"*」と。

山中漆器の辻新太郎氏は、人の生命よりも「儀式」を重んじる人間で、そうは思わない人に対してアホと吐き捨てる人なのだった。そこまで何の議論もなく言い切ってしまわれたら、私も「こりゃだめだ」と感じ、彼が何度も大声でアホと叫ぶのをノイズのように処理しながら、帰らせる他になかった。

彼の「取り込み」に交わらない職人から、このあと飲み直そうと誘われた。
そういうものだ。

酒や煙草やコーヒーといった嗜好品は、本人の意識次第だ。嗜好品は嗜好品であるがゆえに依存症となる。依存症になりやすいものは抜け出すのも難しい。始めるより困難だ。それで「気持ち」が快に傾くなら、医師に止められてなどいないなら、好きなだけ楽しめばいい。そういったものが媒介となる場もある。こんなことを書くのは身内の恥を晒すことなのでほんとうに恥ずかしいことなのだけれど、最初の宴会における乾杯から、父がアルコールの入った飲み物を口にしていなければ。周囲の職人たちは、飲んで構わないどころか「そういう場」は酒でなければいけないと考えている。では、酒を飲むことを禁じられている父を止めるのは、誰だろうか。私しかいない。

辻新太郎は言っていた。あんなことを言ってるくせに自分(つまり私)は酒を飲んでいる、と。それが筋違いだということは、これをお読みになっている方ならお解りのはずだ。私が飲酒するのは何ら問題ない。医師に止められていないのだから。それに私がアルコール依存症でないことは、私と近しい人なら承知のことだ。べろんべろんに酔って醜態を晒すなんてこともしないのだし(むしろ職人衆は、自分たちを楽しませてくれる道化がいれば尚楽しいから、私の静かな飲みっぷりは、駄目なのだろう)。

職人たちは、父が酒を飲んではいけないことを知っている。
そして、にもかかわらず、
年に一度、俺たちが集まる新年会ならいいだろ、と心の底から思っている。
「乾杯の一口で倒れるんか、ああ?」と恫喝してきた職人もいた。
これは、どういうことなのだろう。

アルコール以外にも、健康を害するものはたくさんある。そうしたものを、それを摂取してはいけないと医師に止められているのに摂取しようとしていたら。たとえば自分の妻や子どもが。それでもやっぱり「儀式」を重んじるのだろうか。すばらしいね。見上げた根性、自己犠牲精神だね。でもそれを他人に押しつけるのは大きな間違いだと私は考えている。これは人間関係の話だ。親しい友人であればなおさら、まずいことをするときに止める。そういうもんだと思っている。

「儀式」における乾杯が、ノンアルコールではなくて「みんなまずはビール」でなければならない、という彼の考え方は、正しいのだろうか。そんな儀式などくそくらえだ。私の父だからというわけではない。職人の誰かが同じように飲酒を医師に止められていたら、私は止める。そして、その止め方が、父と私という「家族関係」が成り立った上での方法だったに過ぎない。血の繋がっていない他者であれば、止め方は他にいくらでもある。私は、辻新太郎のような、脊髄反射でキレる人物とは違う。

彼は、これまで彼がそうしてきたように、私のことを悪く言うだろう。その原因が何か、私はここに明確な事実として記しておきたいと思った。なのでここに記す。この文章において、私は何ら自分に同意を求めるように誘導するような書き方はしていない。ありのままの事実と、私の考えを述べているだけだ。煽ることもなく、大袈裟に書くこともなく。そして、このようなことをネットに載せたらどうなるかなんてことは百も承知の上だ。私は、旧態依然として閉じた世界のことなど、どうでもいい。人の命よりも儀式(新年会)が大事で、しかもそれは自分の命ではなく他人の命で、自分たちが「楽しくお酒を飲みたい」ことが正しい、と思っているような人間になど、どう思われようが構わない。

非はどっちにあるか。
判断はこれをお読みになった方にお任せ致します。
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