目の眼オンライン



骨董と古美術を専門とする里文出版が運営する、骨董・古美術・工芸のポータルサイト「目の眼オンライン」で、漆器についての文章を連載することとなりました。昨日、更新されたとのことでお報せいたします。

 
私は、古美術を古美術として見る/視ることが苦手です。実用品である漆器を作っているため、どうしても実用品として「まだ使えるか」「役に立つか」という側面で見てしまいがちなのです。上塗りが剥げた信玄弁当なども、木地が歪んでおらず下地がしっかりとしていれば、塗り直せば使える、むしろ現代の木地や下地よりも良いかもしれない、といった感じなのです。青山二郎とは雲泥かつ正反対というわけです。なので、古美術を専門としている出版社から原稿の依頼を頂戴したとき、正直申しますと戸惑いました。私より適任者がいるだろうから。

漆器を手がける人は全国にたくさんいる。なぜ山中漆器なのか、なぜ山中漆器の中で私なのか、というのを最初の返信で尋ねました。とても率直かつ丁寧なお返事を頂きました。私は私で私の書けることはどういうものかをお伝えしました。連載するときは、一冊の本をまとめるとして、その目次を想像するのが素人ながら割と悪くない方法です。ネタやメモを目次で分けられた項目に割り振って行けば良いのです。

ものづくりに携わる人が文章を書くときに陥りがちなあれこれ、たとえば、日記や、普段の仕事っぷりや、イベントや新商品の宣伝や、交友関係や、ハロー効果を出してるつもりが本人こそ陥ってる内容や、ものづくりの姿勢や、心構えなど、そういったことは一切書くつもりがありません。他人様の場所なのですし、そういうのはブログでやってればいいことです。なるべく事実を公平に綴っていこうと思っております。

事実を書かれると、それはそれで困る、という人が漆器の世界にはたくさんいるような気もしないでもないけれど(たとえば漆器の朱色は、少し前までカドミウム全盛で、現時点ではカドミウムを使わず顔料に替えているって人が増えてるんだけれど、実はその「顔料」ってのも発癌性のあるものだったりして余計たちが悪い、でもカドミウムじゃないよとだけ謳ってる)、まあ気にしません。

不勉強なため、雑誌「目の眼」を知りませんでした。なので本誌を一冊送ってほしいと伝えたら、送ってきてくれました。だいたいのテイストというかトーン&マナーというか、そういうのを掴めて誠に有り難いです。というより、どのようなジャンルであれマニアックであればあるほど心浮き立つ私にとっては、このような専門誌は隅から隅まで堪能できるすばらしい媒体です。

骨董は、フランス語の「アンティーク」のほうが通りの良い世代や層もいる。ちなみにアンティークの語源は、ラテン語の「ガラクタ」だ。現在は、100年以上経ったものをアンティークと呼べる、という国際的な定義があり、WHO加盟国間での行き来については関税もかからない。つまり、私が作っているものなど、私が生きている間にアンティークとなることが絶対にない。それは、中古の漆器、ラビッシュだ。「ジャンク」かもしれない。そして、これが最も重要なのだけれど、骨董が骨董であるのは、その稀少価値ゆえにである。どんなに高名な作家であろうと、同じ形の椀がいくつもあれば、それは骨董の仲間入りはできない。

「無価値な古いもの」という意味も含んでいた日本語の「骨董」は、いつしか稀少価値のあるものを指すようになった。古美術は、美術品であるがゆえに、基本は一品ものだ(ベンヤミンの定義を当てはめればそうとは限らないのだけれど、話がややこしくなるので世間一般のイメージに沿った話だけにしておく)。なので現在は、ふたつの言葉が指すものは、だいたい似ている。

日本の美術品や工芸品には、現在では作ることのできないもの、ロストテクノロジーがたくさんある。私は、そういうのに価値をおく。漆器の世界でも、誰それが作ったものとか、茶道の何々流の何代目のとか、いろいろある。それは確かにすばらしいものだ。でも、本気出せば作れる。もちろん当時の材料は入手不可なので、あくまでも写しに過ぎないが。そして私は漆器を作る人間として、それを超えるものを作ってやるという気持ちも自然と出てくる。「改良」と言ったほうが良いかもしれない。なのでまあ、古き良きものを「愛でる」ような落ち着いた静かな暮らしは、まだしばらく私はできないだろう。

ともあれ、漆器について知る方が増えてくれれば嬉しいし、興味を持っていただけるだけでも有り難い話です。今後も更新したらこのブログでもお報せいたします。


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