古井由吉「鐘の渡り」



極楽極楽。
77歳、現代最高の日本語使い。
日本語文芸の快楽を堪能できる。
帯にある文の通り、現代文学の最高峰。
(そうでなければ景表法違反である)
 


日本語は主述を省略しても文章として成り立ってしまうところが良くもあり悪くもあるところで、はっきりと断言しない日本人特有のあれもそこからきているのかもしれないような気がしないでもない。古井由吉の小説は、読みづらい。たぶん。私にとってはするする入って来て快感極まりないのだけれど。古典文学に慣れ親しんだ人であれば、このような小説が新刊として出ているなんて僥倖かもしれないし、古典文学とは全然違うのかもしれない。そして、文法的な側面から見た場合、極度に削ぎ落とされた文章だ。それは短文というわけでもないし、破綻しているわけでもない。SVCにしてみれば判る。なので、濃い。

濃いけれど、石原慎太郎や中上健次のように、筆圧の強そうな文章とも、まるで違う。

近年の古井由吉の小説は、生きてるのか死んでるのか半分死んでるのか、そういう感じのものが多い。老いと、その先にある死を、常に携えながら生きている。あるいは、死を思いながら暮らす。福田和夫「作家の値打ち」で最高得点がつけられた日本文学史に間違いなく名を刻む傑作中の傑作「仮往生伝試文」などは、死に際するものを集めたものだ。ちなみに「仮往生伝試文」は、もし入手するなら素晴らしい装幀の初版がおすすめ。布貼りに箔捺しに各種の紙に函入りと贅を尽くしていながら枯れた味わいを醸し出している。枯れているのに生々しい、古井由吉の小説は、そんな感じ。

誰ひとりとして聞く者のいなかった雷鳴は、存在する/したか。
という問いが割と昔からある。
その対偶として、本書における「鐘の音」がある。
逆でも裏でもなく、対偶だ。



こういう言い方をするとなんだか矮小化に繋がりかねないのだが、日本的な不確かさや怖さや風土を描かせると、古井以上に書ける書き手は今いない。不穏な空気に包まれたかのような錯覚に陥る。つまり、素晴らしく快感な読書というわけだ。不安や恐怖を煽る書き方もある。謎めいた書き方もある。だがそれらは、大衆的読み物の作法に過ぎず、要は作法と呼べるものでもない。古井由吉の小説から漂う空気は、そうした安易な作法によって演出されたマスプロダクトなものとは異なり、古来より日本の土地に染み付いて来たものをそのまま炙り出しているかのようだ。

言語による芸術である小説は、読み物としての小説のような、ストーリーが全てというものではない。「鐘の渡り」のあらすじは非常に簡単。一緒に暮らしていた女性が死んじゃった男と、女性と一緒に暮らす予定の男。ふたりが峠歩きをすることになる。で、死ぬことなくふたりは生きて帰ってくる。ひとりはちょっと熱を出したけどね。おしまい。ほらね、あらすじ紹介など無意味なのです。

なぜか古井由吉の小説は、書影を撮ろうと思ったら、屋外へ書籍とカメラを持って出かけたくなる。以前のものも、その前のものも、屋外で撮っている。これはなぜなのか。分析するとおもしろそうでいて、つまらない理由かもしれない。





書評についてのブログ記事があった。これはとても興味深い。
「四面楚歌」ではなし面倒な世界
斉藤美奈子氏の「書評」は、まるで大学一年生のレポートみたいですね。

Wikipedia日本版:古井由吉
新潮社:「鐘の渡り」
Amazon.co.jp:「鐘の渡り」
本よみうり堂:「鐘の渡り」 古井由吉著
東京新聞:「鐘の渡り」 古井由吉著
日本経済新聞:鐘の渡り 古井由吉著

関連記事
古井由吉「蜩の声」
古井由吉「やすらい花」
書棚の中身
古井由吉「白暗淵」
古井由吉「辻」

蛇足;

この書影は、私が30年ほど前に小学校からの帰り道、よく寄っていた場所で撮った。ここからの眺めは当時と大して変わらない。私が書影を撮っていると、6人ほどの小学生が来た。小学生は驚いていた。そりゃまあいつもの秘密基地に、初めて見るおっさんがいるのだから驚くのは判る。しかし私も、小学生の頃に来ていたのだ。なので先輩である。下手すりゃこの小学生たちの親御さんのほうが私よりも若い。とまあ小学生はひとしきり驚いてから、輪になって座ってゲームを始めた。私は、書影を撮っているというのも説明がめんどくさいので、古井由吉を鞄にしまい、そこから見える山にカメラを向けた。すると小学生の一人がカメラの液晶モニタを覗き込んで来て「うーん、これは白山ですね」と大人の真似をした口調で言ったので、つい私も大人を真似た口調で「これは富士写ヶ岳ですね、ふじしゃがだけ。白山はあっち。こっち向いたときに時計の十時のほう。今日は霞んで見えない。霞。かすみ」と解説した。そしたら小学生は大人の真似をするのを忘れてしまったらしく「ひとつ覚えたー!」と叫んで輪に戻って行った。白山の方角を覚えたのか、霞を覚えたのか、定かではない。で、ひとつ覚えた小学生が座ったと同時くらいにこんどは女子小学生がふたり来たので「あの山、なんて呼んでんの?」と私は尋ねた。小学生は元気に「おっぱい山!」と答えた。30年前と変わらない。

日本には「鞍掛山」という名前の山がたくさんある。峰がふたつあってその間が少し低くなっている、馬の鞍を掛けるところのような感じだから、その名がついた。それら全国の鞍掛山は、やっぱりおっぱい山と呼ばれているのだろうか。柳田邦男にでも調べてほしかったものである。

そんな、特にそれを撮りに来たわけでもないけれど、そんなわけで撮った、富士写ヶ岳と、鞍掛山。






関連記事