小杉奈緒 余白



待望のフルアルバム。ノーメイクで撮った写真をインナースリーブに使えるミュージシャンは少ない。たまにあったとしても、それは男性から見た紋切型の「女性性」に対する異議申し立てであったり、自らの「女らしさ」の否定であったりする。ロバート・メイプルソープが撮ったパティ・スミスのようにね。で、すっぴんなのでなまめかしさや生々しさがあるかというと、そうでもない。たぶん、モノクロだからだ。人間の目は、色を視ている。厳密に言うと、動いているものの色なんだけれどね。話は逸れるが、我々人間は、目で何かを視ているとき、それが動かないものだったら、なんとかそれを知覚しようと、目のほうが動いている。

 


歌詞については置いといて、リズムやメロディについても置いといて、というと残るは「音」なのだが、それについてちょっとしつこい感じに。

前作のミニアルバムninigiに比べると、音が「パーソナル」になった。横使いなモノクロ写真のせいもあって、プリンスの「パレード」を連想する。あれは、賑やかなバンド編成のはずなのに、密室の中でひとり聴く感じが濃厚で、それが好きだった。蛇足ながら、私は当時の多くがそうであったように、毎年リリースされるプリンスの新譜に歓喜していた。それどころか「パレード」の映画版(というより「パレード」がサウンドトラックなのだが)である「アンダー・ザ・チェリー・ムーン」をVHSで購入しちゃったくらいプリンスにのめりこんでいた。ちなみに映画「アンダー・ザ・チェリー・ムーン」は、タダでも観る価値のない完璧なプリンスの自己満足なので観なくていいです。私は笑い転げながら観たけれど。

大きく広がる空のように、閉じ込められることなくどこまでも広がる音、というのが合っている気がしないでもない。これはあくまでも私見なので、小杉奈緒の唄の魅力そのものについてとは些か異なる。でも、ヒリヤード・アンサンブルがヤン・ガルバレクと組んで録った「オフィチウム」のように、天空へ広がるような音で小杉奈緒の唄を聴きたいと思ってしまうのもこれまた正直なところなのだ。



話は飛ぶが、私たちは日常の行動を自らの自由意志で行っているか、既に決まったシナリオをなぞっているのか、という哲学上の大難問がある。アリストテレスまでさかのぼる必要はないが、カント「純粋理性批判」は読まないと、それぞれがどういうことなのか、そもそも自由とは、ということがまず頭に入っていないから考えることもできない。それはともかく、私たちは自分の意志で自由に生活していると思われがちなのだが、その「自由な意志」だと思っているものの出所はどこか、という問題にすぐ行き当たる。だいたいは、育ってきた環境や、関わった人たちや、見知った書物や情報や、過去の経験や、因果関係などから、どう行動するかを「選んで」いる。それを自由意志と言えるか否かというと、言えないという風潮になっている。これは西洋哲学が20世紀の100年間をかけて導きだしてきたことなので、私に批判されても困るのでおやめください。

では、個人の人生は既に決められている、という決定論が正しいのかというと、正しいと主張している人もいるが、正しくはない。一体どっちなんだ、と困った事態になったのが20世紀後半の話。で、そこで全く新たな見解が現れた。不確定性原理と量子力学である。ランダムなのだ、というのが現時点での最新であり最善解となっている。この「ランダム」は、自由意志の立場に立った上での、頭の中に思い浮かんだ選択肢から、自分が最も好ましいと思えるものを選ぶ、という日常で割とよくやってるあれとは違う。自由意志でも決定論でもない、というわけだ。ちなみにダニエル・デネットは、自由意志と決定論の「調停」をはかっている。

小杉奈緒の唄は、自由意志であってほしい。
そう唄える歌い手が大変に稀な存在だから。

スタジオに入ってコリコリした音色に加工するなんてのは、十把一絡げの歌手にやらせておけばいい。



「恋するわたしは狂っている。そう言えるわたしは狂っていない。」
  ―ロラン・バルト「恋愛のディスクール 断章」

そのどちらでもない立場はあり得るか。
私は、あり得ると考えている。
小杉奈緒の唄は、そんな唄。
そしてそれは、どこまでもどこまでも広がる音として空気を震わせ、
遠い山並みの草木の葉っぱ1枚1枚、土の粒子ひとつひとつにまでしみわたる。

案外知られていないことだが、音楽を聴くとき、それはほとんどの場合はスピーカーで聴くわけだけれども、スピーカーにとって、主な楽器の中で最も難しいのは、ピアノだ。それはなぜかというと話が長くなるので省きます。原因究明のイントロだけ紹介すると、倍音が少ない、音量増大を目的とした楽器だからシビアなのです。だいたい、音が籠る。団塊世代の定番であるタンノイとJBLでも、むしろそれだけ立派なスピーカーなのに、どうしてこんなに酷い音なのだろうと考え込んでしまうセッティングが多い。で、ちゃんとピアノの音を聴きたいとなると、モニター的なスピーカーがよく挙げられる。エラック、タオック、ATC、ディナウディオ、フォステクス、などなど。あるいは飛び道具でタイムドメイン。しかし、それらの「音色」は、私にとって大変つまらない。私は「原音再生」などという見果てぬ夢を追い続けるようなことはしない、ただひたすら美しい音で音楽を聴きたい人間なのだ。で、美しい音を放つスピーカーの中でディアパソンを「選んだ」ことは以前書いた通り。しかし2014年の現時点で私が暮らすのは猛烈に狭い部屋で、ディアパソンなぞ本領発揮はおろか能力の氷山の一角すら垣間見ることができない。なので小型のブックシェルフを実は2年前に購入しており、それは何かというとウィーン・アコースティックのスピーカーで、これが一般的な価格帯における美音系スピーカーの中で最もピアノがまともなのだ(金に糸目をつけなければペアで240万円くらいの、その名もベーゼンドルファーがある)。セッティングのせいなのか演奏のせいなのかエンジニアリングのせいなのかは判らぬが、籠っている音は籠っている。籠っているのだが、おかしなことに「透明感のある籠もり」なのだ。決して「とろん」としたわけではない。これはいい。ピアノの演奏が含まれる音楽を流してぼんやり聴けないのは、ところどころに現れる「籠もり」が引っかかるからで、それを解消してくれるのだからぼんやり聴ける。もちろん打鍵やペダルの生々しさもなくてはならないんだけどね。そして私にとって基準点のひとつである、ビル・エヴァンス「ワルツ・フォー・デビー」に収めされた地下鉄の音を聴けるか(数か所あり、最も大きな音で聴こえる“Some Other Time”の14秒あたりも聴こえないのは問題外)、というのは最低限です。

そんなわけで、ピアノが大きくフィーチャーされた「余白」を、籠りなく聴けるので大満足。奴隷船の船長が、自分のしてきたことを自覚しながらも赦してもらえるという誠に都合の良い歌である「アメイジング・グレイス」などのカバーも収録されていた前作と同じく、武満徹をカバーしている。他にも京都のミュージシャンによる書き下ろしもある。詞は、前作よりも少し“Saudade”であり、大自然というよりも日常的なものになった。でも本音を言えば、SACDかハイレゾリューションで聴きたいという思いはつのるばかりである。


小杉奈緒 余白

01 穆光 詞:小杉奈緒 曲:小杉奈緒・佐野観
02 チャンドラ 詞:小杉奈緒 曲:小杉奈緒・佐野観
03 始まる夜 詞:小杉奈緒 曲:小杉奈緒・佐野観
04 小さな空 詞・曲:武満徹
05 ピアノとパン 詞:小杉奈緒 曲:小杉奈緒・佐野観
06 ドッペルゲンガー 詞:小杉奈緒 曲:小杉奈緒・佐野観
07 鼓動 詞・曲:小杉奈緒
08 心像 詞:小杉奈緒 曲:佐野観
09 穆光変奏曲 曲:佐野観
10 白いこだま 詞:小杉奈緒 曲:石川柾樹
11 生き写し 詞:小杉奈緒 曲:佐野観
12 めぐりめぐる愛の唄 詞・曲:佐野観
13 まばたき 詞・曲:長谷川健一
14 歓喜の唄 詞:小杉奈緒 曲:小杉奈緒・佐野観


Amazon.co.jp:余白
(↑画像にマウスを合わせると耳を拡大できます)

Amazon.co.jp:余白(mp3)

Amazon.co.jp:ダニエル・デネット「自由は進化する」

Amazon.co.jp:ロラン・バルト「恋愛のディスクール」

関連記事
小杉奈緒 ninigi



(2年前の夏に、夜明け直前の山で撮った写真です。ウタ・バースのパクりです)

関連記事