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カンタン・メイヤスー 有限性の後で 偶然性の必然性についての試論



人文学を揺るがす思弁的実在論の最重要作であるという。
読まないわけにはいかない。
 


思弁的という言葉を目にすると、思弁小説家であるJ.G.バラードを頭に思い浮かべる。SFは、近未来のガジェットや宇宙戦争といった典型的な舞台装置を用意して初めてSFとなる、とは限らないことをバラードは鮮やかに見せてくれた。なので思弁的という言葉にはどちらかというと好感を持っている。そして、カンタン(クァンタン)・メイヤスーが1967年生まれで哲学者の年齢が私といきなり急接近し、邦訳を手がけた人たちがついに私よりも若いというフェーズに突入したという割とどうでもいい一点のみをもって私にとってはエポックメイキングな一冊。

読むのは手こずった。
書いてあることは晦渋ではないし読める。
たぶん、訳が日本語として読みづらい。
全然簡単じゃない。

なんとなくみんな思っている疑問がある。それを著者は言葉にしてくれる。そこまでは、とても気持ちが良い。しかし、それがどういうことなのか、それがどうなるのか、といった展開になってくると、途端に胡散臭いというか、全面的に同意しながら気持ちよく読み進めるという快楽的な読書とは程遠いものとなってしまった。必然でないってことは、変化し得る。そうかもしれない。この「そうかもしれない」という感想が、私の本書の感想としてまさしくフィットするニュアンスだ。もっと手厳しく哲学や現代思想を読む人にとってみれば、本書を読むことによって余計な疑問が湧き出て来ること間違いなしだし、そのうちのいくつかは著者へ向けてのものとなるだろう。そして本書は至って凡庸な結論へと突っ走り、読者を置いてけぼりにする。久しぶりにこういう読書体験ができて、私としては不思議な満足感があった。読みながら頭の中では既に私の頭の中で整理整頓されているものを確認しているというか。全ての書物がロランバルトの言う快楽をもたらす読書体験となるはずもないし、私のせいでもない。論旨が明快であるだけに、たちが悪い。破綻していれば、孔と瑕だらけであることが一目瞭然なのだが。メイヤスーは口喧嘩も割と強そうである。恐らく口喧嘩リーグなんてものがあったら95勝5敗くらいのアベレージではないかと思います。その5敗こそが重要なのだけれど。そして些か強引とも思える仮想敵を封じ込めての有無を言わせぬ論旨展開は、なんだか支持者や「思弁的実在論者」の態度にも表れそうな気がしないでもない。でもメイヤスーは当初「思弁的唯物論者」を自称していたはずなんだけどね。左翼にありがちな内部分裂かな。



そもそも実在論は非思弁的だったのだろうかという疑問は置いといて「思弁的実在論」は哲学/現代思想の大きな潮流となるうるだろうか。たぶん、ならない。しかも日本では、哲学に限ったことではないけれど自分の居場所を確保するために若い研究者が盛んに新しいものを煽っており、そういうことをすればするほど逆効果なのだが、やってしまうのが世の常である。構造主義的なんとか論、とか、なんとか行動主義、とかね。何しろ先輩方が活躍する世界で居場所の確保をせねば飯の食いっ逸れなので躍起なわけである。そういうのは、自らが全く新しいものを生み出せば、自然とついてくるものだと思うんだけどね。また「訳者」たちが、肩書きを「哲学者」としているのも、不安を増幅させる。哲学者とは、海外の哲学書を翻訳ししたり紹介するのが生業なのだろうか。そんなわけない(では日本に哲学者はいた/いるのか、と問われると、せいぜい西田幾多郎くらいしか思い浮かばないのもまた事実である)。カント以後ポスト構造主義まで全ての哲学思想を無効にした、人文学を揺るがす思弁的実在論の最重要作、などといった大風呂敷を広げなければ、佳品としての居場所は確保できたかもしれないし、トンデモ本として売り出した方が盛り上がったかもしれない。トンデモ本として読めば、これはたまらなくおもしろい。「人文学を揺るがす思弁的実在論の最重要作」なんていうもんだから王道の本物を期待してしまうのだ。

このメイヤスーの著作は本国で刊行されてから10年も経っている。ようやく日本語訳。もちろん、優れたものは、最も手厳しい「時の流れ」に耐えうる。デカルト「方法序説」然り、カント「純粋理性批判」然り、ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」然り。それら人類の歴史に惨然と輝く重要書と肩を並べるほどのものでもにあ本書は、二十世紀末にフランスで飽きるほどやられた揚げ足取りと重箱の隅をつつくチンケな作業の応酬に比べれば、まだ「ものの見方」や「世界の在り方」を変えうる方法を提示しているという点において「まし」だ。だが、ソーカル事件で哲学界が赤っ恥をかいたのと同じ轍をいっちゃっているのではとともとれる節がある。自然科学の整理整頓ができていないというか。そして、全く新しいものを提示しているとは到底言えない。なんといっても本場の欧米では既に思弁的実在論は盛り下がってきている。本書の主張を一言で言ってしまえば「人間原理」なのだ。というか、思弁的実在論という新機軸らしきものの正体が、人間原理なのだ。その既存の結論へ至るプロセスが、本書というわけだ。もちろんそのプロセスについては、メイヤスー独自のものである。なので全くの無駄ではない。



デカルト、カント、サルトル、このあたりを愛読した人にとっては、とても興味深く、割とスリリングな一冊。答えでも結論でもないが、こういう考え方もあるのね、というひとつを知るには手頃。あくまでも、少なくともカントを読んだことのある人にとっては。或いはヒューム。本書は「ヒュームの問題」を解決したと高らかに宣言しているのだが、別案を出したに過ぎず、自然科学分野では既にそんなこと今さらドヤ顔で言われても、という感じだろう。SF好きにとっても「えっ?」という感じだろう。しかも、超限数や確率論や集合などを持ち出してのメイヤスーの持論は、もしかするとこれを手放しで賞賛する「哲学者」を後々奈落の底へ突き落とす罠ではなかろうかとすら勘ぐってしまった。この世界がどのようなものであるかは、これ一冊ではまかないきれない。長い長い西洋哲学の歴史の中で一際輝く名著を繙くしか方法はない。

思弁的実在論を掲げる人たちは、ネット──SNSやポッドキャスト──を駆使して、普及だか布教だかに精を出した。もちろん、私もまんまとそれに引っかかったひとりだ。そんなわけで、居場所の作り方としては新しい。居場所の作り方としては。どうやら日本でも10年遅れで同じ方法で布教しようとしている。本人たちが騒ぐほどのものではない。整理整頓と、確認。それで充分だし、それ以上を要求するのは酷だ。

副題が「偶然性の必然性についての試論」なので、本論の登場を待ちたい。

人文書院:有限性の後で
Amazon.co.jp:有限性の後で
Wikipedia日本版:クァンタン・メイヤスー
心の哲学まとめWiki:デイヴィッド・ヒューム

「ヒュームの問題」について、ヒューム自身の一応の着地点と、カントの証明と、そして本書で展開されるメイヤスーの「解法」を、とてもコンパクトに解りやすくまとめたブログがありましたので、勝手にリンク貼ります。ご興味のある方は、こちらをご覧くださいませ。哲学者とは延々こんなことやってるのです。それがとてもおもしろい。
Silva Speculationis:純然たる偶然世界へ:メイヤスー
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