パンと日用品の店 わざわざ(のパン)



来た、見た、買った。
私としては珍しく今月は遠くから来た方と話す機会が何度もあって、物と、その物を作る人と、言うなれば文芸研究における作品論と作家論のようなものの差異についてさわりだけ話の途中で見え隠れすることが何回かあった。その人のことを信頼し、その人が作るものなら間違いない、といったように。これはとても幸福なことで、割と世の中みんな自分もそう思っている場合が多いけれど、実は単に相性や好みの問題だったりすることも多々ある。むしろ逆転現象が起きて、物自体はありきたりなんだけど、その人が素敵だから物も素敵、という流れになっていることも世間にはたくさんある。また、作るものは良いんだけど人間性がねぇ、なんてことも、たまにある。物が良いならそれでいいじゃないのとも頭の片隅で思ったりするけど、どうやら人間性が駄目だと物も駄目になるケースが多い。では私自身がそのへんについてどう捉えているかというと、私は、その人を信じるわけではなく、私は私の目を信じている。私の目が信じた物、そして、それを生み出した人。その手続き方法が、私には合っている。正しい順序、秩序と客観性と科学と論理に基づくなら、そうなる。このことについてはまたいずれ改めてまとめたい。早く本題へ入る。

先日の投稿でも書いたが、わざわざのパンは二種類しかない。カンパーニュと、食パン。で、ネット販売は火曜日だけ。それも数分で売り切れる。週休何日だったかな、休日以外はとにかく注文の入ったパンを焼く。そして発送する。人が全然足りなくて、でも労働環境は改善したくて(ワタミの社長が主張しているように24時間365日働けばパンの製造量は何倍かになるかもしれないが、それでは駄目なのだ)、そして肝心要の窯を大きくするわけにもいかない。なので、需要と供給のバランスを著しく欠いている。つまり、なかなか買えない。ネットで買えないのなら、行けばいい。なので行った。

インターを降りてから、山へ向かってどんどん登る。どんな山奥にあるんだ、でも写真で観る風景は田園風景みたいなのに、どうなってんだろ、峠を越えているだけなのかな、などと思いながら道を進むと、登りきったら、地面が平たい。全方位が突き抜けている。高原という言葉からイメージする地形よりも、平たくて広い。とっても見晴らしが良くて、とっても遠くの山が見える。感覚的には、小松などから白山を望む感じ。それが、標高何メートルか知らぬが山を登りきったところにあるなんて、ちょっとびっくりする。そして、それだけ高地で拓けた場所だけに、空気がとても綺麗だ。これは、とても重要なことだ。パンは、多孔質だ。多孔質な物体は、空気を吸う。空気に含まれている微細な物質も吸収する。作られた環境によって、同一のパンでも期間が経てば経つほど味が大きく異なってくる。東京のパンやコーヒーが美味しくないのは、東京の空気が含まれるからだ。と言いながら、残念ながらうっすら汚れた金沢へ持ち帰らざるを得ない私ではあったが。

2009年にひとりで始めたころは、現在は窯があって生地を捏ねたりするスペースとなっている、ガラスの内側だけだった。だんだんスペースを大きくして、現在のようになった。私たちが到着したのは14時半ごろで、そんな時刻になっても店内はお客で溢れ返っていた。開店してすぐの11時ごろは一体どんなことになっているのだろうか。小さなドアを開けると、一分の澱みもない笑顔で出迎えてくれた。あの瞬間だけで、こんな店はなかなかない。一通り店内を拝見し、あれとあれを買おうと心の中で決めといて、ビスコッティとスコーンとみかんジュースをとりあえず頂戴して、一旦お店から出た。私たちは適当にクルマを走らせ、クルマの中でスコーンを食べた。道の駅にはテニスコートがあり、いつかわざわざのオーナー平田さんとテニス対決しようと心の中で誓いながら。


ビスコッティとスコーン。



たぶんこちらはふつうのクッキー。


一口で違いがはっきりと判るスコーン。そんなスコーンは今まで食べたことがなかった。だいたいのスコーンは、味が濃すぎるか、味がなさすぎる。余計なことをするか、素材の味をそのままとか言う技術のなさをエクスキューズするあれである。ねっとり感とさくさく感、固さ/柔らかさ、全てにおいてバランスされた、ここしかないという極めて小さなポイントをついたスコーンだ。何個でもいける。サラダよりもサラダ感覚でいける。胃の中で消えてしまっているようだった。ビスコッティは、しっかりと固い。これでこそビスコッティ。


スコーン。



スコーン。



窯の裏側。こちらがショップスペース側。


お店へ戻り、閉店後の片付けや掃除や洗濯などでお忙しいはずの中、仕事場を案内いただいた。閉店後だからこそ窯の前まで薄汚れた私が入れたのであり、そもそも閉店後に何故お店へ入れるのかというと用事があったからであり、通常はガラス越しにパンを作っている様子をご覧になれます。こねてるところも、焼いてるところも。それはともかく、一緒に行った東京在住の友人と私は15年ほどのつきあいで、平田さんと私の話に同席すれば三者みんな良いという状態になるのは私の中で確信があったので、多忙とは思うが金沢から新幹線でぴゅーっと帰さず、しかも同席までさせた。でも、良かった。話が一段落ついてから、窯を説明いただいた。ロケットストーブ方式だそうだ。熱源は、薪。


2階には平田さんが選び抜いた日用品が。オリジナル商品も多数。



すっごく登ってきたのに、見通しの良い風景。閉店後。


金沢へ戻り、食パンとカンパーニュの両方を、ナイフで少し削って口の中へ入れた。おかしな話だが、クリエイションを刺激された。ごはんのように毎日食べられるパンを目指しているパンなのに。それは、まっとうなものづくりが世間では殆どなされていないからゆえ、まっとうな仕事をしているものに触れるとわき上がってくるものなのかもしれない。そして、最もスタンダードな食べ方であろう、食パンを焼いてバターで頂戴してみた。食パンの皮は、薄いほうが良い。大手メーカーが工場で量産している食パンの何が残念か。皮だ。分厚く愚鈍で、ぱりぱりしているわけでもなく、鈍く固い。焼いてあるはずなのに、干からびたものが湿気を帯びたような代物になっている。あれじゃ食べたくなくなるし切り落としたくなる。一方わざわざの食パンは、皮が薄く、ぱりぱりしていてクリスピーなのに、薄いから軽やかで、よくあるバケットの皮が口の中に突き刺さるということもない。昔から私はバケットやパリジャンなどは中の白い部分に用はなく、手の中で丸めてポケットに入れて店を出たら鳩にあげてあっという間にヒッチコックということが何度もあるくらい、用がない。皮を食べるもので、皮の表面積を増やすために中が膨らんでくれているとすら考えていた。で、一般的には、食パンの皮は主役ではない。しかしわざわざの食パンは「もっと皮を!」と心だか脳だかが叫びたくなるくらい、皮が美味しい。どうしてそんなことになるのか、私にはさっぱり分からない。


食パン。角食。皮の薄さとエッジの立ったぱりぱり感が伝わるかどうか。
原材料:
・強力粉(北海道産)
・牛乳
・洗双糖
・発酵バター
・ゲランド塩
・ドライイースト


中の白い部分も美味しい。そのままだともちもちでふわふわ、かといってスカスカなのではなく、しっかりとしている。焼くと、白い部分の表面も焼ける(あたりまえだ)。愛用のペティナイフで切った(パンナイフは切るというよりノコギリみたいのもので、あまり好きではない)断面は、これは私の技術のせいなのだが真っ平らではなく、でこぼこしている。普段なら突き出た箇所は焼けすぎて何とか反応によって苦味を感じて好きではないのだが、わざわざの食パンは何故か突き出た箇所も同じ焼き色になる。ということは、とても美味しい。ぱりぱりさくさくしていて、ざらっと感が皆無。愚鈍な雰囲気も一切ない。なんだこれ。バターが染み込んだところも美味しいし、染み込んでいないところも美味しい。これは私にしてみれば非常に珍しいことで、調理とは統制することでもあると考えていて、バターを塗るなら均一に塗りたい人間なのだ。だって、そのパンとバターの比率にはベストな位置が必ずあるからで、ベストでないところをできる限りなくしたいからである。漆器の下地のようなものだ。しかもわざわざの食パンは孔が均質で、ということはバターを均等に塗れば、どこを食べてもパンとバターの比率は一定となる。

話は逸れるが、イタリア料理店やバーなどで、突き出しなのか何なのか理解不能なのだが、パンと、塩の入ったオリーブオイルを出してくる店がある。そういう店は、全てにおいて信用しなくていい。オリーブオイルをパンにつけて食べるのは、もともと厨房でオリーブオイルを味見する方法で、なぜかそれが厨房を飛び出て客席にまで侵出してきたのだ。なぜ客が味見をしなければならないのか、しかもお金を払わなければならないのか、ほんとうに理解不能。日本で広まったもので、残念なことに現在では金沢のイタリア料理屋や加賀のバーまでドヤ顔でスッと出してくる。物を知らない店なので、そんな店をやってる人間のことなど一切信用しなくていい、というわけだ。話を戻す。

もうひとつのパン、カンパーニュ。いわゆるパン・ド・カンパーニュ。わざわざでは、その土地の名を冠して「みまきカンパーニュ」という名前。カンパーニュは食パンよりも味がないというか「薄い」ものというイメージがあり、なぜかあまり焼いて食べられることがない。でも焼いてみた。これまたぱりぱりのさくさくで、なおかつ中はもっちりねっとりしていて、どう考えても水分含有量は少ないし再度焼いたというのにどうしてこんなに「潤い」があるのか訳が分からない。ぱりぱりさくさくなのに、潤いがある。清澄さと言ってもいい。それでいて、味が濃い。しっかりと味がする。それは決してバターやミルクや砂糖などによって濃さを付加したものではなく、これこそが「素材の味を活かす」類のものだ。ここまでできるパン職人は、ほとんどいない。焼けた皮が香ばしいとかいったのとは話が違う。全然違う。TOMOVSKYとモト冬樹くらい違う。


パン・ド・カンパーニュ。みまきカンパーニュ。こちらもきめ細かで均質。
原材料
・強力粉(北海道産)
・全粒粉(北海道産)
・ライ麦全粒粉(北海道産)
・自家製小麦酵母
・ゲランド塩


カンパーニュ。上のほう。皮の薄さが判るでしょうか。



カンパーニュ。中のほう。超ドアップ。艶、潤いがある。それだけ水分を保持している。



カンパーニュ。底のほう。手ぶれ注意。


翌朝。私が普段食べている朝食の、お粥のかわりに食パンを主食にしてみた。ハムエッグとか生野菜とか、そういうのでプレートにするのなんて絶対美味しいに決まっているし、でもそれは私の日常ではないからだ。で、何の問題もなかった。パンが納豆と合うことくらい誰でも知ってるし、沢庵やかぼちゃも同様。そしてタラの芽の天ぷら、これとの相性も極上だった。恐らく油があるからだろう。おかずを食べ、パンを食べる。なるほど、これは主食だ。納得しながらぺろりと食べた。単体でも美味しいし、おかずと食べても美味しい、存在感と包容力を兼ね備えた食パン。余計な物が入っていない食べもの/料理は、お腹がいっぱいにならない。添加物や化学調味料が含まれておらず、素材そのままではなく、素材の力を最大限に引き出して高みへ飛翔しているからだ。胃もたれや胸焼けとも無縁。食べてる途中でまた切って焼いて、結局一度に角食を半分食べてしまった。


※完全菜食ではありますが、禅宗では納豆の上の葱も口にしてはいけません。


翌日の朝は、刺激されたクリエイションを大爆発させ(大げさである)、前日から献立を考え、でも理想の献立とはならなかったが(時期外れの野菜をどうしても使いたかったが、時期外れなので、なかった)、ベターな献立となった。ワンプレートである。前日に、鍋に水とグラニュー糖を入れて、グラニュー糖が溶けて色が変わって粘りが出てきたら、サランラップ(他のラップでは熱に負ける)を敷いた皿へ好きなように垂らし、埃の落ちない場所で一晩放置しておいた。で、翌朝。鶏もも肉は塩胡椒してオーブンへ。熱燗した牛乳にブルーチーズをぶちこんでチーズを溶かして伸ばす。紫キャベツと人参は千切りにして塩もみしてからマリネ。トマトは全体をキューブ状に切り落として六面体にしてから輪切りして、断面に蜂蜜を塗って、プロシュートを挟み、はみ出たプロシュートをハサミで切り落とす。サラダ菜とクレソンはオリーブオイルとバルサミコと塩のありがちなサラダに。パンドカンパーニュを切る。鶏肉以外をプレートに盛りつける。鶏肉が焼けたら肉汁だか脂だかをキッチンペーパーで吸い取り、適当な大きさに切ってプレートへのせて、ブルーチーズのソースをかけて、カラメルをのっけて、カカオニブを散らす。完成。



鶏もも肉は、フライパンで焼いてもいい。ブルーチーズとカラメルとカカオニブという組み合わせがどんなものなのかは、食べてみないと判りません。大好きです。ここまでデコラティブでなくていいなら、蜂蜜でいいです。蜂蜜とチーズ、蜂蜜とカカオニブ、どっちも合いますからね。素材の味を活かしてレモンだけで、なんてのは、飲食店としての仕事を放棄していると私は考えております。想像力と想像力、そして試行錯誤、手間、それらがなければ、素材にお金を払っているようなものだからです。炭火で焼いたり炙ったりすれば、そんなの大抵美味しいですし。そんなわけで、ありがちなワンプレートではないワンプレートにしてみたくなってしてみました。ほんとはもっと紫色を主役にしたかったが、ビーツが手に入らなかった。また機会があれば作って撮って紹介します。

黒塗りは、埃や汚れが目立つから嫌、という方がたまにいる。ということはですよ、目立たないけれど確実に存在している埃も一緒に食べていることになります。黒は、清潔な色ではないかもしれない。でも、清潔さを保つ色です。幅45センチの真っ平らなトレイに埃ひとつない状態が、いちばん気持ち良いです。わざわざのパンを、ヤマザキ春のパン祭りのようなどうしようもない皿に盛りつけるのなんて、絶対にできない。事前にお湯で温めていても、できない。ちなみに漆器は躯体が木なので熱伝導率が低く、だからこそ熱い味噌汁を入れた汁椀を手で持てるわけで、焼いたパンの熱を奪うこともない。

翌朝は、チコリを器にしたオープンサンドイッチ。これも頭で思い描く理想の組み合わせとは程遠かったが、三月の金沢では善戦したほうだと自負している。特に凝ったことはしていない。そして器は漆器ではない。京都の家具屋で購入した長方皿で、作った人の名前は知らない。右から、プチトマトはオリーブオイルと塩、ズッキーニは塩胡椒、牡蠣の薫製は缶詰そのままでディルをトッピング、ジャガイモのチーズ焼き、ソーセージのチーズ焼き、謎の柑橘にセルフィーユ、ベーコンと玉葱には胡椒たっぷり、玉子サラダ、スモークサーモンとクリームチーズとディル、パプリカとゴーダチーズにヨーグルト、ブルーベリーとクリームチーズ。チコリの爽やかで微かな苦味が全体を引き締めて、どれも美味しい。食べるときは親指と中指でチコリをつまみ、人差し指でチコリのアールを押さえるようにすれば、悲惨なことにはならない。ただ、もしこれをご覧になって作ってみようという方がいらっしゃったら、チコリは舟形なので、安定させるため下にキャベツの千切りやクラッシュアイスを敷き詰めるのが良いと思います。




その翌朝は、わざわざで購入したチーズをメインに、チーズには胡椒と蜂蜜(巣やビーポーレンも混ざった生の蜂蜜を少し加熱して柔らかくして垂らす)とリンゴと胡桃。プチトマトは少し焼いてココナツをトッピング。謎の柑橘とセルフィーユ。人参とズッキーニは焼いてオリーブオイルと塩胡椒。見た目が白いのでエディブルフラワー。飲みものは牛乳(このグラスもわざわざで購入した、500ミリリットルも入る大振りなもので、前々日のブルーチーズソースを作るときに牛乳を燗してチーズを溶かしたのもこのグラス)。だんだんと、よくある朝食というかワインを飲むときの食べものというか、クリエイションが終息していった。




食パンの最後は、チキンカツサンド、ヒレカツサンド、鯖サンドで頂いた。


かなり雑だが、これもまた幅広い実験精神によるものです。


これらの食事を通して実感したこと。パンは、味の濃いものをつけて食べる土台ではない。
ましてや、パンそのものに余計な味つけがされていたら、毎朝食べらんない。

大手メーカーの工場で量産される食パンは問題外としても、パン屋が毎日焼いているパンでも、毎日の食事で食べ続けることが難しいものばかりだ。それをパン屋自身も解っていて、だからこそ、パン屋にはいろんな種類のパンが並んでいる。客も、基本はバゲットやパリジャンやパンドカンパーニュや食パンで、ときどきベーコンエピなどに浮気する。そしてまたバケットに戻ったりする。それはなぜか。余計なものが入っていたり、濃すぎたり、ファーストインプレッション重視だったり、或いは反対に「つまらない」パンだからだ。世の中には、この「つまらない」パンが多い。何かというと天然酵母でどうのこうのというので、鄙びた雰囲気で店構えを作り、いかにも優しいパンを作っていますよという「アピール」で成り立っているパン屋たち。味がしないのは余計な物を加えていないからで、素材そのままの味を大切にしているとか、化学調味料や添加物に慣れた舌では知覚できない味だとか、そういったことを言いがちなパン屋。天然酵母で、余計な物を足さずに焼いている。それをアピールするというのは、どういうことか。それをアピールするレベルでしかないのだ。そうやって作るパンの味は、つまらない。美味しいパンが悪者であるかのように思ってるのではないだろうかと勘ぐってしまうくらい、つまらない。スカスカ。経営者にサイコパスが多いからといって全てのサイコパスが経営者になれるかというとそんなわけがないのと同じで、もし仮に同一の原材料でパンを焼いてみれば違いは冷酷なほど明確になって現出するだろう。天然を謳うパン屋のパンがスカスカなのは、雰囲気と自己正当化とエクスキューズでしか成り立っていないからである。素材そのままの味を云々というのは、調理の腕がないと言っているようなものだ。むしろ、なんでもない小麦粉と化学的なイーストでパンを焼いて美味しく作れる人のほうが凄い。

わざわざのパンは、とても美味しい。原材料は北海道産の小麦と天然酵母と地元の牛乳など。で、これが重要なポイントで、そうした素材を前面に押し出してはいない。美味しいパンを追求していったら、ごく自然とそうなった、という流れだ。巷に溢れる食傷気味の、天然酵母がどうのこうのアピールしているパン屋は、素材選びで仕事が終了しているようなものだ。この差は大きい。決定的な違いとなる。小麦の味がするー、とかいった間抜けな感想など、出ない。もっと鮮烈で、なおかつ奥深い。

わざわざのカンパーニュは、ロケットストーブ式の窯で焼かれる。ここまで焼きにこだわったパン屋が都内にあるだろうか。素材にこだわって、素材の良さをそのままとか言っておきながら、量産型のパンと同じ業務用のオーブンで焼いている店が殆どではないだろうか。パンを作るというのは、どういうことか。パンを作るとは、何か。パン作りとは、何か。決して素材を選ぶことではない。こねて発酵させて焼くことだ。だからこそ、わざわざは、原材料を前面に押し出すわけではなく、窯を重視している。需要と供給のバランスを著しく欠くと、商売人はどうするか。そんなの増産するに決まってる。もっと大型のガスオーブンを導入すればいいだけだ。しかしわざわざのパンは、平田さんが自ら考案して作った、ロケットストーブ方式の石窯だ。そう簡単に大型化などできないし、じゃあもうひとつ窯を、なんつっても大変だし、目が行き届く範囲や量にも限界がある。

薪を熱源にした窯で焼くと、どういうパンになるのか。オーブンよりも短時間で焼き上がる。中心にも熱が伝わる。だから皮が薄い。だから中は水分含有量が高くて艶があって潤いがあり、もちもちで、再び自宅で焼いても外がさくさくで中がもっちりとしていて粘りのあるパンとなる。焼いたパンがモチモチしているのは、もちろん発酵した小麦によるところが多いのだけれど、水分を逃さないことでより一層もちもちしたパンとなる。これが難しいのは想像するまでもないことで、焼くというのは水分をなくすことに他ならない。薪窯だと、その相容れないであろうふたつが両立する。皮が薄くてぱりぱり、中はもちもちで粘りもある。よくある、天然酵母がどうのこうの言ってるだけのつまらないパンは、この皮と内部の水分含有量が話にならない。味にも食感にも大きく差が生まれる。それが、美味しいパンとは、ということになる。


窯。凄まじいオーラ。



ロケットストーブの、下部の穴。


強さと優しさは、一方が欠けたら、もう一方も存在しえない。帰宅してから食パンを切って、焼かずに食べ、焼いて食べ、バターを塗ってみて、葱味噌を塗ってみて、ごはんですよを塗ってみて、なめたけをのせてみて、蜂蜜を塗ってみて、メープルシロップを塗ってみて、私は、スカスカで何の指針もない雰囲気だけのつまらないパンと、その対極に位置するわざわざのパンとの、遠い遠い隔たりをも味わいながら、強さと優しさは一心同体なのだなと改めて感じていた。それ単体でも成立して生きていけ、なおかつ清濁すべてを受け入れる包容力もある。それが、強くて優しい。そして、強さと優しさを兼ね備えたものだけが、クリーンさと美しさを纏える。そしてそれは、当然ながら生み出されたものだけではなく、生み出す人たちがそうだからそうなるだけの話で、わざわざの小さなドアを開けたときに私たちを迎えてくれた沢山の笑顔も、そんな、滅多にないものだった。

最後のほうは珍しく精神的な話になりましたが、何を言っているのかは、わざわざのパンを一口食べれば、判ります。

※私が撮る写真は人の気配のないものが多いため、お店の写真は実際の空気とは随分異なります。

以上是九千二百六十九字也。


佐久平、佐久平スマートIC入口からの夜景。
わざわざは、たぶん、遠くの山並みの赤い光のあるくらいの高さの、左奥のほうにある。


パンと日用品の店 わざわざ
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追記;
今年11月ごろより、椀二種類、わざわざでの取り扱いが始まります。
小売店にもネット通販にも卸していない私にとって、ちょっとした決断です。


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