東農園 五代庵の梅干し 丙申年の梅 五福



すさまじい梅干しを頂戴した。
これまで口にした全ての梅干しの中でぶっちぎりに美味しい。
鮮烈で、清冽で、なおかつ奥深くてたおやか。
一度だけ京都でお会いしたことのある、私よりも遥かに名の知れた方が、昨年お子さまを産んだ。なので、ほんの気持ちばかりの出産祝いをお送りした。それが、このような素晴らしい梅干しとして返ってくるなんて、とても有り難くて嬉しい。内祝いの枠を超えている。

ヤマトが荷物を届けにきて、最初はその段ボール箱の大きさや重量感から、酒かなと思った。開けてみると、さらに段ボール箱があった。段ボール箱から段ボール箱を取り出してみると、梅干しと書かれている。もうこの時点で尋常ならざる梅干しだと確信できるオーラが段ボール箱から放たれていた。内側の段ボール箱を開けると、袋織りされた真田紐で結ばれた木箱が出てきた。ちゃんと、木箱は面取りされていて、紐のかかる箇所を切り落としてある。真田紐を解いて木箱の蓋を開けると、陶器でできた壷が出てきた。紙と紐と輪ゴムをとって、陶器でできた壷の蓋を開けると、ビニール袋が二重になっていて、内側の袋には結束バンドがかかっていた。全ての段階で隙間をエアパッキンが埋めている。ここまで厳重なパッケージの梅干しなんて食べたことがない。むしろ潰れ梅などの「見た目はあれだが味は同じ」と謳われているものをよく購入していた。だが、ほんとは、梅干しは潰れると大きく変貌している。美味しさが流出流失してしまうのだ。

















美味しい梅干しとは。良い梅干しとは。簡単な話だ。大粒で、皮が薄く、柔らかく、それでいながら皮に傷や斑点がなく、色が良く、内部には果汁が溜め込まれていて、瑞々しくて潤いがあり、余計なものを使わず、まっとうな作り方をしていて、味がびしっと決まっているものだ。五代庵の五福は、それら全ての「おいしい梅干しとは」という条件を軽々とクリアするどころかさらなる高みがあることを具現化した、奇跡のような一粒一粒だ。これだけ立派で素晴らしい梅干しならば、これだけ厳重なパッケージにするのは当然だ。そして、皮が薄すぎても柔らかすぎても良くない。漬けようがないからだ。そのあたりのぎりぎりのポイントを突いた梅の実は、とても少ない。



美味しい食べものは、美しい。良い意味で、人の手が加わるから。アーティフィシャルとかアートとかいった言葉の意味の他に、丁寧とか丹精とか技術とか智恵とか、そういうことだ。また一方、非常に根源的で生命力に溢れたものも美味しい。こっちは人の手が加わらないからこそ美味しい。梅干しは、前者だ。

紀州の南高梅には、AからDまでのグレードがある。当然、ある梅農家のAランクよりも、また別の梅農家のBランクのほうが「良い」という事態もありうる。さらに、味や成分含有率などはグレードへ完全に反映されるわけでもない。基本的に南高梅は大粒で皮が柔らかいため、機械化された梅干し「工場」では扱うことが難しい。均質化された量産型とは全く別の世界によって成り立っている。だからこそ、作り手の腕によるところが大きくなる。南高梅のAランクだからといって、残念でもったいない梅干しになることも、ありうるのだ。そんなことは滅多にないだろうけど。でもやっぱり梅干し作りも食品作りのひとつなわけで、素材の栽培と梅干し作りの二段階において腕の良し悪し次第であることは厳然たる事実である。あとは、事前情報なしでの、個人の味覚による。事前情報のひとつとして「一粒数千円の梅干しだよ」と言われたら、そんなのバイアスがかからないわけがない。

また、数十年ものの梅干しといった類のものが、たまにある。乾涸びている、あれだ。私は30年ものを食べたのが最長だと記憶している。あれは、長ければ長いほど良いという価値の軸のみで成り立っているので、あまり興味がわかない。梅干しは、ウイスキーではないのだ。

届いてすぐ一粒つまんで食べようかと思ったけれど、それは余りにも失礼な気がして、やめた。私は朝食を摂るならば粥が多いと、先日のブログ記事でも書いた。そして、そこに添える漬物は、沢庵というか大根の糠漬けであることが殆どだ。これは私の生活信条によるもので、栄養学でもダイエットでも何でもない。いつの日か、音を立てずに沢庵を食べたいと思い、いまだぽりぽり音を立てながら噛んで嚥下している。そんなわけで梅干しの出番は非常に少なく、これまでのブログ記事での食事風景を写したものにも、少ない。ちゃんとした梅干しの出番など皆無に等しい。でも、そのときが来た。

米は、ある程度の標高がある土地で、そこから上流には人工物のない水の流れを保持している、そんなところできちんと栽培されたものが美味しい。石川県だと、小松市の山奥で栽培されているコシヒカリ。私の主食は、それだ。その米をお隣富山県の立山の水で研いで炊く。これは立山の水が美味しいからというわけではなく、単にヤマトを利用すると貰えるからである。それがラッキーなことに隣の県の水だったわけで、遠く離れた土地の水だったら、水ではなくヤマトのミニカーを貰っているかもしれない。





象印のおかゆメーカーのおかげで革命的に粥づくりが手軽となり、外すこともなくなった。内釜を取り出して、水を入れ、内釜を戻す。湯煎方式。何分粥にするかは、水の量で調節すればいい。梅干しと一緒に食べるのであれば、割としっかりした粥のほうが良いだろうと思い、ほとんど全粥じゃないかという程度にした。他におかずは納豆。吉野家の明太子定食が明太子だけしかおかずにないのと同じく、立派な梅干しがあれば納豆すらいらないとは思いつつも、タンパク質を摂取しないのは気持ちの上で少々不安があるため、納豆は納豆で一品としてつけた。味噌汁は昆布と椎茸の出汁に白味噌、具は産直屋蔵肆で購入した有明海の海苔。これまた風味豊かで鼻腔が快感に襲われる、ちょっとこのへんでは見当たらない素晴らしい海苔。




まず、味噌汁を一口。そして、梅干し。しっかりとした塩気がある。塩が丸くなるとかマイルドになるとかいった表現とは無縁の、しっかりとした塩気。とはいっても、塩のアタックが激しいわけでもしょっぱいだけでもなく、ちょうどいい。これが塩梅だ。これはどういうことかと考えた。恐らくあれだ、レモンがすっぱいのは糖分が少ないからで、すっぱさが同じくらいある他の柑橘系が甘いのは糖分によるもので、といったことかもしれない。どういうことかというと、梅の味があるからだ。しっかりとした塩気に負けないくらい。なるほど、これが梅の味か、と存分に堪能しながら味わった。脱水症状になるんじゃないかってくらい唾液が出た。




箸でつまむと皮が破れるくらい柔らかい。これはもう袋を二重にして陶器の壷に入れて木箱に入れて段ボール箱に入れて段ボール箱に入れないと、輸送中に皮が破れてしまう。せっかく丹誠込めて丁寧に漬け込んだのだから、傷をつけるわけにはいかない。ふだんはあまり粥にトッピングしないのだけれど、絶対に「似合う」姿しか想像できなかったので、行儀が良いとは言えぬ食べ方をしてみた。白粥の上に、梅干し。果汁が粥に溶け込み、すさまじく美味しい。しっかりしょっぱいのに、しょっぱくない。とても不思議なことになった。たった一粒の梅干しから、0.4合の粥の隅々にまで梅の味が浸透している。



ナイフで切ると、透明な水分が溢れ出る。よくある赤色ではない。透明だ。そして美味しい。透明な果汁だけでごはんをおかわりできそうなくらいだ。皮が薄くて口の中で邪魔にならない。くたくたに煮込んだ桃のコンポートのようにほろりと崩れ、微かに繊維質の存在を感じながらとろけていき、ふわーっと風味が広がる。肩や背中にまで広がる。加熱していないのにこんなに柔らかくなるなんて、すごい。しかも、天日で干しているはずなのに。



あまりの美味しさに、一食で三粒のペースで食べてしまっている。パスタなどの料理に使おうか、煮物等の調味料として使おうか、などと一瞬考えたりもしたが、この美味しさを隅から隅までくまなく1ミクロンたりとも逃さず損なわず堪能するならば、粥か、そのままお茶と共にか、或いは塩昆布などと交互に口へ運びながらお茶か、お湯に浸して潰すか、それくらいしかない。壷は梅の文様が入った美濃焼。金箔が添付されていて、まるで金沢である。ペースを落として、ゆっくりと味わっていきたい。食べれば、消えてなくなるのだから。

申年の梅は縁起が良いそうだ。そんなこと全然知らなかった。平安時代から、無病息災や幸せを願って食されてきたとのこと。12年に一度の梅。お子さまが申年生まれということもあって、これはまさしく祝祭的な逸品だ。この「丙申年の梅 五福」は、何とびっくり三度の神事まで執り行って作られている。祈願だ。その様子が、同封されたいくつかのパンフレットのひとつに書かれている。そこまでやって初めて、縁起が良いと言えるのだろう。ほんとうに有り難いものを頂戴しました。


以上是三千六百五十四字也






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Wikipedia日本版:梅干し
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