ロラン・バルト『現代社会の神話』

gendaishakai

著作集第三巻
これまでは抄訳しかなかった。
やっと完訳を読むことができる。

この著作集はどれも邦訳がすばらしい。
またもや渾身の訳業によって、
最も親しまれたバルトの著作が、
あるべき姿で日本語になった。


日常生活を送る中で、我々はすでに慣習化された常套句を無意識のうちに多用する。それは言葉づかいだけではなく、思考回路や価値観にまで影響を及ぼす。何かを見て、それについて考え、自分なりの判断をするとき、その常套句の範疇でしか考えることができないことが多い。

そうした常套句/ステレオタイプを暴き出したのが『現代社会の神話』だ。ここには哲学的な難解さなど微塵もない。最初の章で、プロレスはスポーツではなくスペクタクル、劇であることを言ってしまっている。そして観客はプロレスの何に興奮し、何に涙を流すのかを解析している。プロレスとは一体何なのか。そんな感じで、ワインや小説やおもちゃなどに潜む意味と作用を鮮やかに解明していく。

ワインを飲む人間は、なぜワインを飲むのか。ワインに何があるからワインを選ぶのか。なぜ小説を読むのか。「だってワインはおいしいから」とかいった表向きの理由ではなく、ワイン愛好家にとっては、なるべくなら言ってほしくないようなことを明らかにしていく。

トップダウンとでも言うべきブルジョワの文法、そして、多数の論理で集団化すると凶暴さを増す大衆。そのどちらにも宿る、何かを言っているようでいて何も言っていない、ありふれた考えや思考停止したチョイスを批判するバルト。クルージングやシトロエンの何が(どのような人間に)受け入れられるのかを、ありふれた理由ではなく分析する。

ピアノと戯れ、勤務先の大学から支給されるノートにデッサンを描き、思索にふけるバルトこそブルジョワイデオロギーの権化ではないかという意見もあるだろうが、だとすればなおさらバルトは偉い。言われたくないほんとうのことを自ら白日の元に晒していることになるからだ。

「日経エンタテインメント」誌や「DIME」誌の「ヒットの理由」といった特集などとは大違いである。ああいう後づけのものを読んで「なるほど」と思うような馬鹿こそ、企業に利用される「ターゲット」であり「消費者」だ。マーケティングでは消費者と呼ばずに生活者と呼ぶようになって随分経つが、いまだにそういう「大衆」が大多数の日本は、やっぱりブランドビジネスの大消費地になるべくしてなったんだなと痛感する。

雑誌に連載していたものなので、ひとつの事象についてのボリュームはとても少ない。なので読みやすい。哲学や思想が苦手な人でも楽しむことができる。だが最低限の準備は必要かもしれない。そのあたりはよくわからない。バルトが辿った過程を遡るようにソシュール『一般言語学講議』を読むのがいいと思うけど、そんなことやりだしたら芋蔓式にきりがない。

バルトはこの著作で、記号学を社会分析に援用し、記号学的批評というスタイルを生み出した。この手のことは、エクリチュールの実践として日本を描いた『記号の国』や、もっとセンチメンタルに傾いた『偶景』などの著作を持ち出すまでもなく、バルトの十八番である。

「消費は記号だ」「ブランドは記号だ」とは心理学やマーケティングはもちろんのこと一般人ですら口にするようになっている(そうなったらもうおしまい)。そのすべては、この著作から始まった。そしてやっぱり、この著作が、最も深い分析と鮮やかな切り口を見せている。いまだ誰も超えることなどできない。
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