ロラン・バルト『記号の国』

kigounokuni

第七巻
この著作については、ほとんどの人が誤解している。
これまでにちくま文庫から出ていた邦訳『表徴の帝国』は、めちゃくちゃな訳。
バルトの立ち位置が曖昧なまま、訳者の想像で補っている。
そのため正反対の意見になっていたりする。
それを指摘したのは私の知る限り丹生谷貴志氏だけだった。

2003年11月に東京大学教養学部美術博物館で、そして2004年1月に京都大学総合博物館で、ロラン・バルトのデッサンを展示するという、哲学者としては異例の展覧会「色の音楽・手の幸福 ロラン・バルトのデッサン展」が開催された。もちろん行った。図録も購入した。ほとんどが、勤務していた大学から支給されているノートやメモ帳に描かれたもので、図録でもじゅうぶんにその筆致や手触りを確かめることができる。ものによってはオリジナルよりも拡大されている。

ロラン・バルトのデッサンには、確実に日本画と書の影響が見てとれる。画像で開いてあるページなどは、書への試みだと思う。勤務先の便箋に描かれている。『記号の国』においてバルトは日本の書についても考察している。西洋には、ペンしかない。羽根だろうが万年筆だろうが、西洋の筆記具はすべて「太い」か「細い」の両極端しかない、と。カリグラフィとは、手作りのタイポグラフィだと俺は思っている。そこには理想型があり、それに近づけば近づくほど上手いとされる。そこには書き手の情緒や意図や独創性などは入り込む隙間がない。

ロラン・バルトはエクリチュール、シニフィアン、シニフィエといったクリティカルタームを駆使し、おまけに独自の解釈や定義を行い、さらにその意味する内容を変貌させてきた。彼の頭の中にあったことは、常に書くことと書かれたものについてであった。バルトが日本を訪れ、俳句と書に興味を持ったことは当然のことだった。

日本の筆記具は、筆。それは、太さも自在なら、濃淡も自在だ。ちょっと力が大きいと、確実に力が入ったことが残る。ためらいや迷いがあったことも残る。そしてバルトは、書の達人が、何の躊躇もなく一息に書いてしまうことにも驚嘆した。

そしてバルトは、サインペンが日本で生まれたことに納得している。どの方向へも動き、筆圧で太さが変わる、日本人が本来持っていた書くことへの特性をそのまま大量生産品にしたもの、それがサインペンであると。

デッサン展に併せて、各誌でロラン・バルトの特集が組まれた。もう何度めかわからないが「ユリイカ」でも組まれ、執筆陣には丹生谷貴志氏もいた。丹生谷はほとんどを『表徴の帝国』の誤訳について書いている。これを読んで初めて、私は『表徴の帝国』を読んだときの違和感の原因を解った。『表徴の帝国』という本を読むだけでは浮かび上がってくることのない、重要な核心について説明されている。長いし、著作権に抵触どころか完全にまずいのだけれど、読み解くことと翻訳にまつわる問題についてわかりやすくまとめてあるので、全文引用してしまう。

総特集=ロラン・バルト
無関心の恋
丹生谷貴志

 例えばバルトの『表徴の帝国』へのガヤトリ・スピヴァクの評価は手厳しい(『ポストコロニアル理性批判』邦訳・月曜社)。異文化、或いは異集団を、相対的に上位にある者(よそ者)が記述することに内包される傲慢さ、或いは暴力性を当然のことながら充分自覚しているバルトは、あらかじめそこで記述される「日本」をどこにも実在しないロマネスクな「幻想国」であると指定し、冒頭から読者にもそれを銘記することでその暴力性をエレガントに中和してはいるが、結局のところ「日本」に対する野心なき旅行者を装いつつ、「よそ者=ヨーロッパ人」のコロニアリズム的イメージの破片と戯れているに過ぎない、という訳である。実際、バルトの留保や慎重さ、或いは記述の精緻さはともかく、それが「一ヨーロッパ人の見た日本」の類書に酷似していることは事実であり、彼女の批判はおおよそにおいて問題点を正しく突いている。しかし、バルトの『表徴の帝国』の織り上げられ方は、スピヴァクの手短な検証よりも今少し複雑だろう。

 まず、事実認定から始めれば、バルトは主に大学に呼ばれて、一九六六年、六七年、六八年と三年間毎年、三度に渡って日本に滞在している。それぞれ一ヶ月程度の期間である。その結果、七〇年に『表徴の帝国』が書かれる。この一連の年号に注意を払っておこう。バルトの日本滞在には、たまたま招かれたという以上の彼自身の強い欲求があったとは思われないが、少なくとも当時、漠然と「東洋的なるもの」と総称されるしかないものへの「関心」が「欧米」に高まっていたが、その中でも「日本」はインドや中国といった「途方もなきオリエント」とは異質の、「別の東洋」としての幻惑を広げており、言わばバルトはそうした幻惑の中に計らずも巻き込まれることになった自分を発見せざるを得なかったことに違いない。かつて印象派の画家たちや室内装飾家を魅惑した「日本」、他の「東洋」と異なり、古代の遺制や封建主義を突き抜けて一挙に高度資本主義国にのし上がって来た「日本」、或いは、何か知れないプロセスによって、西欧的(ヘーゲル的)な「歴史」を脱臼させ、あたかも「歴史の彼岸」に立ち現れたかのような「日本」etc.etc.……。しかもバルトを巻き込むことになったのは「欧米」側からする「コロニアリズム」的な幻想だけではなかったろう。自らを「別の東洋」であることを思い好んだ「日本人」たちが彼を「接待」したのだ。彼らはおそらく「善意」から、バルトを、彼らが「日本的」と考える場所に日々案内したに違いない。当時の日本の現実の街路は高度成長期の神経症的な喧噪や学生運動の喧噪等々に満たされていたはずだが、バルトが引き回され、案内されたのは、高級日本料理料亭であり、能楽であり、文楽であり、生け花であり、寺院や石庭であり等々……つまりはバルトは「日本人」自身において幻想化された「日本」の中を引き回されたのだ(本文の中でバルトは、自分はいつも最高級に近い宿に案内された、と、「告白」している)。言わばバルトは、西欧的「オリエンタリズム」の幻想と、それを奇妙な具合に自身の中に折り曲げて称揚する「日本人」の幻想の中に巻き込まれ、或いは差し込まれることになったのである。
 今一つ事務的な(?)ことだが、おそらく『表徴の帝国』は少なくとも当初、バルト自身の内発的な欲求によって書き始められたものではないだろう。『表徴の帝国』は当時、美術系の図書を得意とするスキラ書店が企画進行していた「芸術の経」叢書の一冊として注文されたものである。その叢書は専門家ならざる詩人や作家、作曲家等に世界各国の「美術作品」等をモチーフに斬新でコンパクトな「世界美術体系」を構成する意図を持っていた。オクタビオ・パスのインド論『偉大な文法学者の猿』やレヴィ=ストロースの『仮面の道』も含まれるその叢書は言わば「プレ・ポストコロニアリズム」的とでも言うべき企画であり、バルトは中門によってか自主的選択によってかはともかく、「日本美術」を巡る一冊を書く要請を受けていたに違いない。言わば彼は「仕方なく」『表徴の帝国』を書き始めたのだ。
 ……無論、『表徴の帝国』が諸種の「仕方ない」事情で書かれたものであることを強調することによってスピヴァクの批判から免罪させようというつもりはない。むしろそれは以上のようなコロニアルな「オリエンタリズム」の「所与の環境」の中で、それを拒否することなく引き受けた上で、如何にして密かにそれを「裏切ることが可能か」という試みとして書かれたのではないか、ということである。例えばスキラの思惑を、或いはその思惑の背後に広がる「美的コロニアリズム」を、そしてまた、もはや特殊空間に於てしか機能していないもの、或いはむしろ半ば以上機能停止してしまっているものを、「日本的なるもの」の実相であるかのように「外国人」に紹介しようとする「日本人」たちを……「脱構築」といったけたたましい批評的武装を開陳することなくバルトらしい密やかさで「裏切る」こと……隠密の「不実」を犯してみせること……。

 穏やかな「不実」は冒頭の一種の態度宣言である「かなた」の中に、宣言されることなく、しかし隠しもしない口調で明示される(因みにスピヴァクはこの「かなた」がボードレールの『旅への誘い』から来るものであることを「発見」したことを皮肉まじりの得意さで開陳するが、一方、バルトの本文の冒頭に隠されることなく現れる「ガラバーニュ国」がアンリ・ミショーの残酷な架空旅行記『グランド・ガラバーニュの旅』の想起であることには触れないし引用からも削除される。バルトのそれとは別の意味で彼女の問題に深く関わりもしようこのテクストを、知っていて触れなかったとすれば、これは「奇妙な言い落とし」に思える)。「かなた」の章の冒頭で、自分が以降「Japon」と呼ぶことになるだろうものは「現実の日本」ではないことを明確にする。しかしより重要なのは、それが、一般に「西欧人」が、そしてまた或る種の「日本人」が自らのものと信じたがっているような意味での「日本的なるもの」と名指しされる漠然とした幻想的イメージにも与しないという銘記でもあることだ。なるほどそれは「それらの人々」が信じている「日本」に似てはいるだろうが、自分が書こうとしているのは、「現実の日本」の実質に関わらないばかりか、幻想が実質化しようとするものにも関わらない「別のもの」である、と。現代「日本」の現実はもとより、架空化された「日本」とも積極的には関わらない「不実」がここでの懸案となる。
 「もし私が架空の人々を想像しようとするなら……」と本文は書き出される。スピヴァクはここにすでに「日本」を架空化しようとする「バルト=私」の主語の権威性を問いかけるが、それは試みとして性急過ぎよう。『表徴の帝国』は最初の一行が読まれる以前に、表紙やその他の情報によってそれが「日本」について書かれた書物であることは読者には明らかであり、つまり読者はすでにその知識に応じて「日本」の現実や思い込みの(すでにして架空の)イメージを持っているはずである。バルトはすでにそうした既定のイメージの拘束の中でしか書き始められないのであり、だから、この冒頭の一文は、「そうした既定のイメージを無視してよければ」というさしあたりあり得ない条件(ともあれ「日本」について書くことは決定されているのだ)を要求する「受け身」の「わたし」として書き出されているのである。続けよう。「もし私が架空の人々を想像しようとするなら、彼らに思いつきの名前を与えることが許されるだろうし、それを公然と実質のない綾取り(ルビ:ロマネスク)の様なものとして扱うことも許されるだろうし、つまりは新たなガラバーニュ国を建国して、その空想に如何なる現実の人々も思い起こさせないようにすることも出来よう」。繰り返すが、バルトは自分が扱うことを要請されている「国」がすでに「日本」という現実-幻想の実質を持たされてしまっているという条件においてこう書き出していることを忘れまい。さらに続けよう。(「日本」という既定の現実や幻想的実質を無視していいのなら)「如何なる現実に関しても再現して見せたり分析して見せたりする義務もないだろうし、この(かなた/どこかの)世界の中のそこかしこから幾つかの線分を引き出してみたいと思うだろう(ここで線分と言うのは、製図における線や文字の線といったような意味だ)、そして、それらのばらばらの線分が何か確固としたシステムを形成するままにしておきたいのである」。
 再度繰り返すが、これは対象が「日本」と既定されている以上不可能ではないにしても、転倒した手続きとならざるを得ない。と言うのも、「日本」というイメージを規定する想像=システムはすでに読者の思念の中に形成されてしまっており、バルトの「?出来るなら」という望みは半ば断たれているからである。しかし少なくともこの冒頭の夢想は、読者に、何故そのように「日本」を(或いは「別の場所」を)扱うことが断たれてしまうのかという問いを凝りのように残すことにはなるだろう。ともあれ、バルトの冒頭の「私」は「架空の国=日本」を作り出す権威主体を隠しているのではなく、さしあたりは架空に与しない「自由な主語」ではあり得ないことの受け身の告発として書かれるのであり、さらに積極的には、その受け身性によって、存在しないことも可能であったはずの「日本」という架空の集合体を厚みのない線分にばらけさせてしまうことの決意ともなるだろう。言わば共犯的不実がここで想起されているのである。

 ……相互的無関心、敢えて言えばこれがデリダ、或いはスピヴァクの批評装置としての「脱構築」の代わりを、バルトにおける批評装置として作動させることになる。如何にもプチブル的なという声が聞こえもするが、それはさておこう。ともあれ或る意味では単純なことである。何かに対する「関心」がそれに対する知的な或いは物理的な所有・支配のモーターとなるのなら、それを停止してしまえばいい。コロニアリズムはもとより、スピヴァクが告発する或る種の「ポストコロニアリズム」ですら、「関心」に発する欲動が所有・支配を公然と、或いは密かに発動させてしまうのなら、「関心」を停止させてしまえばいいのである。しかし、「無関心」が単に相手にたいする「無関心」であるのなら、それはそれで別の暴力を形成してしまうことにもなろう。その瞬間、「日本」は幾重にも折り畳まれた「コロニアリズム的関心」の幻想から解放されはするだろうが、同時に、文字通りあってもなくてもいい忘却の中に破棄されてしまうことになるだろう。だから重要なのは「無関心」において相互的に存立すること、その無関心的な関係性、相互的無関心における関係の実践なのである。
 ここで或る意味では『表徴の帝国』冒頭の「かなた」において気にかかる一節が現れる。気にかかる、と言うのは、少なくとも私にはこの部分について、邦訳も、おそらくはスピヴァクが参照している英訳も翻訳-解釈が不正確であるように見えるからである。さしあたりはまず、邦訳を写そう。
 「わたしは東洋の本質などに、憧れのまなざしを注がない。わたしには東洋など、どうでもいい」(邦訳・ちくま学芸文庫一二頁)。
 スピヴァクの邦訳でもこの部分は「わたしはオリエントには関心がない」と訳され、さらに彼女はこの一節をバルトの無責任さの例証としてすらいる(ということは英訳文でもこの意に訳されているのだろう)。しかし、フランス語原文を見ると、確かに解釈は微妙だが、この部分は違う読みに向けて書かれているように見えるのだ。原文を引用しておく。

 Je ne regarde pas amoureusement vers une essence orientale, l'Orient m'est indifferent......
 (アクサン省略)

 問題の個所は二節目である。文法的に言えば、邦訳の「わたしには東洋などどうでもいい」にしろ、英訳からの重訳である「わたしはオリエントに関心がない」にしろ、訳はそのままでは辞書的な誤訳とは言えない。しかしこの単純な一節にはこれもまた辞書的に可能な他の訳の可能性もある。つまり原文通りに、「わたし」ではなく「オリエント」を主語のままにして訳せば、「オリエント(東洋)は私に対して冷淡(無関心)である」、となる。文字通り主語が転換する。そして私には前後の意味から、後者のほうがバルトの意図した文意であると思われるのだ。実際このように解すればこれに続く文と、「かなた」全体の調子が或る整合性を示すのである。或いは一つの証拠として、邦訳がこの部分を「わたしには東洋などどうでもいい」と訳したためにそれに続く訳文に無理が来ていることを見れば分かる。邦訳を引用すれば、それに続く部分は次のようになっている。
 「……ただ、こちらの対処の仕方を考えて狙いをつけるならば、東洋は西洋と完全に断絶した、思いもよらぬ象徴世界の存在をかいま見せてくれる特徴線の貯蔵庫となりうる」(同前)
 訳者が「象徴システム」を「象徴世界」と訳してしまうことや、「traits」を「特徴線」といった座りの悪い造語に訳してしまうことの違和感は今はおくとして、問題は傍点部分である(引用冒頭の「ただ、」から「つけるならば」まで)。邦訳者が参照した初版本なりにはそれが存在したのなら謝罪するが、少なくとも私の手元にある原文全集版にはこのように訳すべき文章は存在しないのである。まさか、原文には〈〉つきの協調語としてあって、邦訳文にはまったく訳されていない「〈flatter〉」という語がこのような訳に置き換えられたとも思われない。言い換えれば、その直前の一節を「わたしには東洋などどうでもいい」と訳してしまったために、それに続くバルトの文章との整合性がつかなくなり、訳者は折り合いをつけるために、原文にはないこのような一節を付け加えざるを得なかったとしか思えないのだ。
 バルトの文章のこの部分はむしろ一種の比喩であって、例えばそれを、彼が好んだ寄る辺無い徒然の「街角での無関心な恋」の情景として解すれば意味は自然なものとなる(例えば後年の『偶景』や『パリの夜』を参照すること)。例えば……
 「私は一瞬の恋に惹きつけられてといった訳でもなく彼女を(彼を)見る、彼女(彼)はといえば、私のさして熱意のない視線に対して無関心のままである。だから私の視線が彼女(彼)に見出すのはその身振りのちょっとした厚みのない線分・輪郭線の集積だけであるけれど、私はその身振りの重層した絡み合いや思いがけない動きに、思いもよらない象徴的なシステムがあるのではないかという思いに〈妄想を膨らませる〉ことになる。何かわたしにはまったく思いも寄らないシステムがあるかのように」……。
 この「彼女」或いは「彼」に「東洋」という語を入れていただきたい。つまりバルトは、「東洋-彼女-彼」に対して、「ものにしたい」というほどの欲望の支配欲(コロニアルな!)の熱意もなく、かといって無視においてでもなく、「機会があれば〈誰かが〉恋することがない訳でもないだろうもの」に対するような「無-関心」において関わるありようを方法的に提案しているのである。
 ……『表徴の帝国』は見た目とは異なる書物として置かれることになる。それは「日本論」ではないし、或いは「西欧人バルト」の「明晰な傲慢さ」においても架空化された「日本」の姿を描いたものでもない。「コロニアリズム」の傲慢で暴力的な「レイプ」とは無縁のこと、「ポストコロニアリズム」の善意溢れる「和姦」の恋情とも関わらない。実質的には何も起こらない「無関心の恋」のありようによって「他者」と「共存」しようとするところの、或いはそこに不意に訪れる中身のない恋情への一種の「方法叙説」の書へと変わるのだ。本書冒頭に置かれる烏帽子をかぶった舟木一夫の肖像はほとんど同じ姿で最終頁の後にも置かれる。しかし、冒頭の無表情が、最後の写真では軽い微笑に変わっていることは偶然ではない。本書はただこの「無関心の恋」の「無意味な」軽い微笑を呼び起こすだけのために書かれるのである。

 とはいえしかし、スピヴァクの批判、バルトの「明晰な傲慢さ」という批判はまったく見当違いという訳ではない。深みにはまらないことによって暴力的な支配や断定をすり抜けることの一種の礼儀正しさは、結局のところプチブル的な孤独の、保身の身振りに酷似しているからである。これは或る意味でロラン・バルトの他の仕事にも関わる最大の問題点かもしれない。『表徴の帝国』に限れば、彼女の語法で言えば、そこにおいて「ネイティブ・インフォーマート」たる「日本人」は、例えば喫茶店の場面におけるように、バルトの無関心の関心からする視線に玩ばれているだけだということはおおいにあり得るのだ。
 ……しかし、この書物に関して言えば、何故か彼女の予測には入ってこない事態が加わる。単純なことで、この書物を、例えば私が今現にしているように、「ネイティブ・インフォーマート」たる「日本人」が読む、ということである。……では「私たち」にこの書物は素朴な意味でどう映るかと言えば、一種の馬鹿馬鹿しさ、である。バルトの傲慢や愚かしさではさしあたりなく、例えばまずは、「日本的もてなし」として彼を「日本的風味」を満載した高級料亭やら天麩羅屋あたりを引き回すことしか出来なかった「私たち」、の。それがとりわけ「恥ずかしい」ものとなるのは、バルトの徹底した受け身によってである。或いは時に彼をうんざりさせたかもしれないそうした「もてなし」に彼は一切苦情を口にせず、受け入れる。例えば日本料理や天麩羅屋の場面で、彼は一度として「口に合わない」はもとより「美味しい」とも書きつけることはない。まさに彼は、無関心な関心の中で、そうした「接待」の空虚さを含めて、それらすべての「厚みのない線分・輪郭線」を、慣れない茶席で興味のない茶器を玩弄することを強要される私たちのように、受け身の無-関心の中で受け入れる。そして彼のその身振りを通して、それら、「私たち」が「日本的なるもの」の実質として提示し強要するものがほぼ完全な空虚でしかないことを思い知らされることになるのである。彼が「皇居は空虚である」と書いた時、それが「天皇制」の本質を指摘した名言として流布されるという滑稽な事態が生じたことは遠い記憶ではないが、その言葉はむしろ、彼が料亭や天麩羅屋、或いはすき焼屋で受け身に受け取っていただろうものの敷延にすぎない。「ネイティブ・インフォーマート」である「私たち」が「日本的なるもの」として提示できるものが、ことごとく内実を欠いた空虚でしかないことをバルトの受け身はその微笑に抑えられた「不実」によって露呈させる。その時、いささか大仰な言い方をすれば、『表徴の帝国』は「私たち」にとって奇妙に捩れた「アポカリプス」の書に変わる。どこにも存在しない「かなた」と指定された「日本」は、「私たち」にとってもどこにも存在しない架空として、この書を通して、ゆっくりと蒸発してしまうのである。

 ……そして或いはこの時に、ロラン・バルトというどこか正体不明の書き手の不気味さ、言わば(?)熱狂のない愛の、無関心の関心の中で「この世界」を受け身に記述する黙示録記者の無気味さが来る。『表徴の帝国』は滅びの都市「ハルマゲドン」を新たに指定する。それが偶々(!)そこでは「日本」と名づけられるのである。


 「ユリイカ 第35巻17号 12月臨時増刊号 総特集 ロラン・バルト」平成15年12月15日

私のパソコンでは出ない漢字について一か所平易な単語に置き換えた。傍点は省略。また、明らかに誤植と思われる「信じたがってしるような」などは「信じたがっているような」というふうにした。

問題の箇所が『記号の国』ではどのように訳されているか。うまく逃げている。そしてそのつかみどころのなさ、強権的に断言しない謙虚さを備えた曖昧さは、バルトの(キャリア後半の)全著作に共通している。

最終段落はどうかと思うが、それ以外はすべてその通りだと思う。漠然とした違和感が、この丹生谷貴志の文章によって一気に解決した。職業柄私は、日本的なもの、日本といえば、といったものが、既に日常生活に根づいたものではなく、ハレの日の様式美として「伝えられていくもの」としてかすかに存続していることを痛感している。外国人が来日したら見せてまわるのは浅草の雷門であり、皇居であり、歌舞伎座である。そうしたことを恥ずかしいと思わない日本的なおもてなしの醜悪さを、バルトは明確に文章にはしていないが、確実に感じている。これはひっくり返せば簡単なことで、自分がフランスに招かれたとする。そしてフランスの学術界の権威たちが、フランスを案内してくれることになった。見聞するのはルイ王朝時代の建築様式や服装、食事。そんなことはありえない。

そのことをきちんと指摘しているのは丹生谷貴志氏ただひとり。つまり、バルトが訪れてから40年近く経とうとしている現在においても、何ら進歩していない。東京の中心は皇居、その空洞さが記号、などといった解釈をしていては、何も読み解けていない。
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